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第36話

* 「待ちわびて貝になってしまうかと思いましたよ……さあ、そんな戯れ言はさておき、約束通り酌をお願いします。それにしても……誠に美しい御姿だ。さぞかし、他の者の心を虜にするに違いありません」 宝石のような星が夜空に煌めき、雲間からは月明かりが差し込んでいる。 王宮の中央広場の周辺に聞こえるのは、虫の音と夜行性の梟なる鳥の鳴き声だけだ。 玉座には王族らが神妙な面持ちで夕膳を取り囲み、宴の合図を物々しい雰囲気で待っている。自国で開催する夜の宴とはいえ、王族達は《湖雨》の第二王子の機嫌を損ねないように細心の注意を払っているのだ。 「粗雀・天音之尊……失礼ながら申し上げまする。此方、詩鴉国の名産品である高級肉と野菜をふんだんに使用した煮付け料理でございまする」 「ふむ……なかなか美味そうな料理ですね。見た目も彩りよく映えています……それでは、いただきます」 ふと、《湖雨の国》の第二王子の傍らに一人の男が現れた。その口調から察するに、おそらく【粗雀・天音之尊】の付き人のうちの一人だろうけれども他の付き人の者達とは明らかに違う雰囲気を醸し出しているのが分かる。態度や素振りだけでなく身なりからも、それは伺えた。 《湖雨の国》では、王・上級付き人・下級付き人が身に纏う衣服の色は厳密に決まっている。 王は赤い貴衣を身に纏い、上級付き人は橙色の――そして下級付き人は黄色の支衣を身に纏う、というしきたりとなっていると何処かで聞いた覚えがあるのを煌鬼は思い出したのだ。 「誠に美味ですが……少し味付けが自国と比べると濃いようですね……煌鬼よ、今こそ酌をする時です。さあ、私に酌を……お願いします」 「は、はい……どうぞ……お召し上がりくださいませ――粗雀・天音之尊様……」 気を抜いてしまえば、手が震えてしまいそうになる程に凄まじい緊張を必死で堪えながら、杯に酒を注ぎ終えてゆっくりとした動作で持ち上げると《湖雨の第二王子》へと杯を渡すべく彼の元に近付こうとした。 しかしながら、ここで予想外の事態が起きる。 「あ……っ____」 急に、どこかから着物の裾を引っ張られて体の均衡を崩してしまったせいで酒が並々と入ったった杯を傾けてしまい、中身をあろうことか粗雀・天音之尊へと掛けてしまったのだ。 「…………」 酒まみれとなり、呆然とする粗雀・天音之尊____。 高級そうな着物も酒がかかり濡れ鼠のようになってしまっては台無しだ。 「貴様…………湖雨の第二王子――粗雀・天音之尊に何たる無礼を働くか!!粗雀・天音之尊……失礼ながら専属付き人の私めがこの者の罰を決めても宜しいでありますかな?」 「よい……周防よ、申してみなさい」 「では、失礼ながら申し上げまする。此方の王宮には牢屋なる場所があるとか……。故に、今宵の宴が終わるまで……いえ、一晩はこの無礼者を牢屋に閉じ込めるというのは如何でしょうか?」 煌鬼は腸が煮えくりかえるような怒りを抱きつつ周防なる粗雀・天音之尊の専属付き人を睨み付けた。先程、煌鬼の身に付けている着物の裾を引っ張ることの出来る人物は限られていて、尚且つ位置的にそんな事ができるのは周防という男しか有り得ないと理解したせいだった。 「あ……あなたでしょう、俺の着物の裾を引っ張って……わざと転ばそうとしたのは……」 「黙っていろ……っ____」 ぱしっ____と乾いた音が中央広場に響き渡り、辺りを静寂が包んだ。さほど力は込められてはいないとはいえ、付き人の周防なる男が煌鬼の頬を叩いたのだ。 ただでさえ緊張で張りつめていた煌鬼の瞳が涙で歪む。その目を玉座に座る珀王や、周りにいる王族らに向けて移動させてみるものの、誰一人として何も言うことはない。 いや、正確には一人だけ此方へと悲しげな瞳を向けてくれる者がいた。 【天子様】____。 彼だけは唯一、煌鬼を心配そうに見つめていた。しかしながら、言葉を発することはない。おそらくは、湖雨の第二王子とその付き人に対して下手な言葉はかけられないと分かりきっているせいだろう。 「さあ、煌鬼なるこの無礼者を……牢屋に連れて行きなさい。ただし、それ以上の罰を与えることはない……ここには警護人はいないのですか?」 ぱん、ぱんと粗雀・天音之尊が手を叩くと慌てて此方へと駆け寄ってきたのは皮肉にも自国である詩鴉の警護人達だった。しかも、その中には険しい顔つきをした朱戒の姿もあり、あまりの屈辱と情けなさで消え去りたくなってしまった。 複数の警護人らから強引に牢屋へと連れて行かれる最中で振り返った煌鬼は、どことなく切なそうな目を此方へと向ける粗雀・天音之尊の姿をとらえたような気がしたのだった。

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