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第42話

いくら世純に対して言葉にせずとも「助けてくれ」と、その困り果てた目で訴えかけてみても、普段であれぱ容易に煌鬼の伝えたい事が理解できる賢い彼は何も反応を返してくれずに真っ直ぐに此方を見据えてくるのみだ。 その間にも、目の前にいる【母】だという翻儒という男性の錯乱状態は酷くなっていく。呻き声をあげながら死んだ魚のような目で畳に散らばっている物を見境なく手に取っては畳に投げ付けたり挙げ句の果てには壁に向かって投げようとしている。 翻儒が白い小鳩の鳥笛に手を伸ばし、それを掴んだ時に煌鬼は反射的に彼の手を慌てて掴んで制止した。 明確には、何故かは分からなかった。 しかしながら、それを壁に叩きつけられ万が一壊れたりでもしたら堪ったものではないと本能的に察したのだ。 しかも、それはただ単純に鳥笛が壊されると困るというものではなく彼の手を掴んですぐに鳥笛を取り壊されまいと胸元に抱くくらいには哀切の感情によるものだった。 「これだけは……お止めください……っ___これだけは……」 訳も分からぬまま、ただ煌鬼はひたすらに白い小鳩の鳥笛を守る。すると、つい先刻までは座ったまま虚空をぼんやりと見上げつつ時折呻き声をあげていただけの翻儒にかなりの変化が生じる。 地蔵のように側に立っていて二人を見守るるばかりの世純にも、翻儒の大いなる変化に驚きを隠せずにいたがある行動を彼が起こしたとたんに目の色が変わり慌てて二人の方へと歩み寄ってきた。 「あ……う……っ……こ、こ……う…………き……」 翻儒は白い小鳩の鳥笛を胸元で必死に抱き締める煌鬼の名をたどたどしい口調で繰り返しながら畳に散らばってしまっていた紙を手に取ると、それを見て欲しいといわんばかりに突き付けてくるのだった。 ぼさぼさで明らかに手入れの足りていないことが窺える伸びきった黒髪に、魚の目のように濁りきった灰色の瞳____。 更には、要領を得ないたどたどしい単語を繰り返し訴えてくる翻儒の様を見て、いくら世純から「お前の母だ」と言われても信じたい気持ちが皆無に等しかった煌鬼はやはりその紙を受け取ろうとした時も得たいの知れぬ妖と遭遇した時はこのような気持ちなのだろうなと的外れな事を思い浮かべつつ恐る恐る手にしたのだ。 紙に描かれていたのは、雨が降らないため今みたく枯れ果ててまるで瑞々しさがなく干からびた状態の桜の木などではなく、満開に咲き誇る淡紅色が誠に目を引く王宮の庭に立つ桜の木____。 その木の枝に登っているのは、一人の童子だ。 そして、そんな童子を心配そうに見上げているのは三人の男性。一人は慌てふためく表情を浮かべながら枝にいる童子を見守っているようだ。 あとの二人は、童子を心配しつつも穏やかな笑みを浮かべつつ桜の木の下に立っている。初めてその絵を見た煌鬼でさえも、ぱっと見ただけでも、その二人が仲睦まじそうなのが何となく分かる。 「それは…………それは、かつて雨がまだ降っていた頃の桜の木を描いたものだ。だが、つい先日までは全く興味を示してくれなかった。それすなわち、どんなに心が壊れていても……肉体が衰えていても……煌鬼――息子であるお前の存在を翻儒は忘れてはいなかったということかもしれぬな」 世純の言葉を耳に入れつつも、煌鬼の視線はある一点だけを追っていた。 翻儒は、紙に描かれている童子の部分を必死で指差しながら「こうき、こうき……」と自分の名前を繰り返し呟いていたことに、ようやく気が付いたからだ。 よくよく見てみれば、紙の右下には【⚪月 ×日 王宮の桜の木の下にて 。翻儒と 魄 と 燗喩 ――煌鬼 (世純 著 ) 】と小さな文字で書いてあったのだが、その事よりも煌鬼は全く意図せずに涙を流してしまっている自分に対して怪訝さを覚えた。 「何故に、お前は今――涙を溢しているのだ?」 「………っ____」 至極、単純な世純の問いかけにさえ咄嗟に答えられずに言葉に詰まる。 「それは、お前が心の底では翻儒を母と認めて……本来である家族に戻りたいと無意識のうちに願っているからではないのか?」 ____と、その直後のことだ。 鋭い指摘をしてくる世純へ何と答えようと迷っている暇さえ碌になく、唐突に小部屋から少し離れた寝所の扉が勢いよく叩かれる音が聞こえてきたのだった。 * 『煌鬼よ……ついにお前が牢を脱出したのが皆に露見した。我はこれから部下や警護人と共にお前を探しているふりをせねばならなくなった。しかしながら、それも時間の問題であろう。明朝、ひっそりと牢に戻った方が身のためだ。おそらく、お前は後日珀王様や湖雨の王子らから事情を聞かれることになるだろうが……それから、どうでるかはお前次第。今までのように真実を隠して必死に謝罪し逃げるのもあり。身の潔白を晴らすのも……また有りだ。とにかく、今宵は母子水いらずで過ごすとよかろう』 それから少し経った後に世純は、こう言い残して寝所から一人で出て行ってしまったのだ。 その理由は至極単純なもので、とうとう煌鬼が牢から脱出したのが他の守子達や警護人らに露見してしまったからだ。 しかし、煌鬼が今動揺しきっているのはそんな些細な事柄のせいではなかった。 いずれ、牢から脱出したのは誰かしらに露見するのも分かりきっていたし、ましてや珀王や湖雨の第二王子から尋問にかけられるのも覚悟の上だった。 煌鬼が今、動揺しきっているのは血を分けた母である翻儒と二人きりとなっているという予期せぬ事態のせいだ。 (でも……世純様がいない今――俺の本当の気持ちを伝える、いい機会でもある……) そう思い至った煌鬼は深呼吸をした後に、またしても最初にこの小部屋に入ったばかりの時と同様――虚空を眺めて、何処かで聞いた覚えのあるような鼻歌を繰り返し口ずさむ翻儒の側に近寄っていく。 「は……は、はうえ……ずっと____お会いしとうござい……ました」 頬を真っ赤に染めつつ、煌鬼は見栄や強がりなど一切ない本心を翻儒の耳元で囁く。 すると、口角を僅かにあげた翻儒がそっと自分の頭を撫でてくれたため途徹もない安堵感を覚えた煌鬼はそれから暫くした後に母の胸に抱かれつつ眠りの世界へと誘われていくのだった。

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