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第48話
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(結局は……拇印をした意味などないではないか――やはり、あの慧蠡なる男とて……完全に信用などできぬということか……)
慧蠡に言われるがままに、疑いもなく拇印をしてから数分が経過し、更に数十分が経過した頃のことだ。
煌鬼は身も心もすっかり疲弊しきっており、なおかつ心中は荒みきっていた。
幾ら待てども暮らせども、舞副の儀に身に付けていた衣装に変化など現れる気配はない。ただでさえ、真上から太陽が照りつけ煌鬼のみならず、ずらりと並ぶ守子や警護人達――更には客人の異国から来た人々の顔にも疲れの色が見える。
それにも関わらず、この状況を作り上げた慧蠡は愉快げに太陽を見上げつつ笑みを浮かべていため、煌鬼には彼が何を企んでいるのか分からなかった。
「____ふむ、そろそろだな」
満足げにそう呟いたかと思うと、懐から緑の透明な小瓶を取り出した慧蠡。
そして、おもむろに王族の眼前で土下座をした後に先ほどまでの愉快げな様とはうってかわって真面目な表情を浮かべつつ王の顔をまっすぐに見据える。
慧蠡の目的が全く読めない煌鬼はもちろんのこと、それどころか罪を此方に押し付けようとしてくる憎き存在の周防ですら、その意図が分からずに困惑しているかのように見えた。
「王族の皆様、そしてこの舞福の儀の衣装を仕上げてくれた方に謝罪します。どうか、この慧蠡の賃金から舞副の儀の衣装に対する弁償代として引き出してくださいませ」
王も、王妃も――そして無子を除く二人の王子と段下で守子と共にいる何人かの針子人。皆が皆、言葉を述べることもなく唖然とした表情で慧蠡を凝視している。
しかし、そんなことなどお構い無しだといわんばかりに立ち上がった彼は今度は置かれっぱなしであった舞副の儀の衣装の近くまで歩いていくと、そこで一度深々と礼をしてから緑の小瓶の中身を振りかけた。
すぐに変化はなかったが、暫くして今まで何もなかった筈の生地に赤い渦巻き状の紋が浮かびあがってきた。
「……っ____」
すると、先ほどまで余裕綽々な態度をあらわにしていた朱雀の顔に途端に焦りの色が見え始めた。
「____賢い王族のお方ならば理解できましょうが、この舞福の儀の衣装に浮かびあがってきた赤紋とこの拇印を見比べて下さい。さすれば、自然とこの慧蠡の言葉が間違いないではなかった――つまり煌鬼が無実だと証明されるで――」
と、慧蠡が言いかけている最中のことだった。
顔を真っ赤にし、これ以上ないくらいに悪意をあらわにしている朱雀が慧蠡の頬を容赦なく叩いたのだ。
「この……この……生まれながらにして存在意義などない庶子ごときが、よくも……よくも俺に恥をかかせてくれたな……っ……この婬売め!!知っているぞ……貴様は高貴な男に媚びを売って、今の身分を手にいれたと____よくも恥もなくこの場にいれたものだ」
「…………」
周りにいる誰も、身分が高くましてや凄まじい怒りをあらわにしている朱雀に対して言葉をかける勇気ある者はいない。
玉座とその周辺に座している王族ですら、朱雀の余りの剣幕に息を呑んだのだ。
嫌味に対して涼しい顔をしている相手が気に喰わなかったのかは分からないが、朱雀は再び手を振り上げて目の前にいる慧蠡の赤くなりつつある頬へ平手打ちしようとした。
が、ここにきて――騒ぎを起こしている張本人である慧蠡や朱雀は勿論のこと、その場にいる者達にとって予期せぬ事態が起きた。
「う……っ____」
今まで真っ青な顔になりながら事の顛末を見守ってきた煌鬼が修羅と化した朱雀の手によって再び平手打ちされそうになった慧蠡の前によろよろと近寄っていき、その身を呈して彼を庇ったのだ。
横向きになりつつ、地に倒れる煌鬼。
口の端が切れ、尚且つ悲痛な呻き声をあげている煌鬼を目の当たりにした珀王が流石に眉間に皴を寄せながら朱雀を制止するべく口を開いて何事かを命じようとした直後のことだ。
またしても、予想だにしない異変が起きた。
しかしながら、今度は先ほどの異変とは比べものにならない一大事だ。
周りの守子達がざわめく。
王族が悲鳴をあげる。
「……っ____!?」
それも、そのはず____。
今まで王族席に座していた天子に向かって、突如ときて何処からか一本の矢が勢いよく飛んできて、その白い滑らかな肌を赤い血で染め上げたせいだった。
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