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第59話

※ その惨状を目の当たりにした瞬間、煌鬼は両手で口元を押さえつつ絶句して息を呑み両膝をがくがくと震わせながら驚愕することしかできなかった。しかし、その場に尻餅をつかなかったことは、ましだといえよう。 其れほどに凄惨な光景が、容赦なく目に飛び込んできたのだ。 むろん、顔は顔面蒼白となり言葉はおろか悲鳴さえもすぐに出ては来ない。 つい先刻、中庭の池にて目の当たりにした惨状も酷いものだったが、それでも現場全体の悲惨さは此方(調理場)の方が遥かに上だ。 調理場内部は決して広いとはいえず、更に衛生面においても、お世辞にも綺麗とはいえない。 それというのも王族専用の食事をこさえる調理場という高貴な場所ではなく、守子達使用人に提供する質素な食事をこさえていた場だったからだ。 年がら年中、床から壁面に至るまで煙や小さな埃にまみれていたこの調理場は、今や調理過程で発生する煙や埃ではなく火災による黒い煤にまみれて部屋全体が見渡す限りが焼け焦げているという悲惨な状態に陥ってしまっている。 また、火災が判明し消火活動した時刻から暫く経ち、炎が鎮火しかけている今でさえも灰色の煙が彼方此方から吹き出してしまっていて思わず口元を手で塞がずを得ない状況だ。 「お、おい……ここに焼け焦げて――誰のものかも分からない哀れな黒地蔵があるぞ。こりゃ、ひでえもんだ……」 「いや、よく見てみい……ここんとこ、僅かやけんど衣服の布が燃えずに残っとるが。やけんど、こん状態がひでえもんなのに……変わりねえべな」 共に駆けつけ、周りを散策していた守子達が会話しているのが聞こえて、煌鬼は先程から抱いている胸のざわつきに何ともいえぬ不快感を覚えつつも、おそるおそる黒地蔵――いわゆる遺体のある方へと一歩一歩進んでいく。 「す、周防……殿____っ……何故に……何故なのでございますか……!?」 真っ先に焼け焦げた室内に響き渡ったのは煌鬼の言葉ではなく、同じように顔面蒼白となった湖雨から来訪した使者であり周防付きの案内人の痛ましい声だった。 しかしながら、その絶望や悲しみ――何よりも大切な人を救えなかったという己に対する不甲斐なさは痛い程に分かる。 煌鬼とて、つい先刻に中庭の池にてこの世で一番とはいわずとも今まで過ごしてきた人生において三本の指に入るくらいには大切だと必要だと思っている実父のように偉大であり尊敬している世純を突如として失くし、更には暗い池に沈み必死で助けを求めていたであろう彼を救うことができなかったのだ。 しかし、それは唐突に起きた。 今まで主を失くし、感傷に浸りながら嗚咽していた湖雨の案内人が突如としてすっくと立ち上がると、そのままかつて周防だった黒地蔵が横たわっている場所から少し離れた所へと歩いていったのだ。 その堂々たる足取りに、迷いなど一切ないように煌鬼には思えた。 しかしながら、部屋全体が煤と(鎮火しつつあるとはいえ)灰色の煙にまみれ、更には焼け焦げた棚は崩れ落ち、床には殆どが溶けている調理器具が散乱しているという滅茶苦茶な惨状が広がっているというのに、いったい彼は何をもって彼方へと向かっていくのだろうかと疑問を抱きつつも後ろをつけてみた。 すると、湖雨の案内人がぴたりと足を止めて床に置かれていた、ある物を両腕で抱えながら背後を振り向いた。 穏やかな笑みを浮かべつつ、案内人はある物へと視線を落とす。 それは、黒土でこさえられた壺なのだが、不思議なことに四方八方は散乱している他の調理器具とは違って焼け焦げた形跡がなく割れもせずに綺麗なまま形が保たれているように見える。 そのことを訝しんでいた煌鬼だったが、ふいに案内人の男からその黒土でこさえられた壺を差し出され、戸惑いも隠せぬままに彼の顔を見つめつつそれを受け取ることしかできないのだった。 「…………」 案内人の男は無言だったが、その顔つきから察するに『蓋を開ける』ことを望んでいる様子のため、僅かばかりもやもやした気持ちを抱きながらも反論するといった野暮なことはせずゆっくりと蓋を開けてみる。 おそるおそる覗き込んだ煌鬼の目に飛び込んできたのは、奇異な見た目の一輪の花。 花弁は硝子のように一枚一枚が蜻蛉の羽根の如く透明で透き通っており、茎は普通のものよりも、かなり太く見える。 「これは、周防殿から……貴方にむけて遺された――いわば遺品というもの。たかが一案内人の此方が言うのも何だが、どうか周防殿の最後の意を汲み取り、受けいれてほしいのだ」 と、はるばる海を渡り湖雨から来訪した案内人は途徹もない悲しみも癒えぬままに深々とお辞儀をして煌鬼へと懇願するのだ。 その後、煌鬼は不思議な花に関する逸話を《湖雨》の案内人の男から聞いた。 【偲渡花】なる、その花は《湖雨》にしか存在せず、尚且つ不思議な言い伝えがあるらしい。 【偲透花】の花弁は透明でなくなり、青白く光る時がある。その現象を起こすには特定の条件があるというのだ。 まず、【偲渡花】を誰かに贈ること。 贈られた者が贈った者に対して悲しみやあるいは怒りといった負の感情を抱いている最中なこと。 贈った者が贈られた者に対して愛を抱いていること。あるいは、愛とはいかずともそれに近しい感情を抱いていること。 それを全て備えた後、雨粒が【偲渡花】の花弁に滴り落ちると途端に青白く光り、贈られた者は幸せになれるという言い伝えがあるそうだ。 「かつて……幼い子供の頃、周防殿と幼馴染みだった。よく喧嘩していたものだが、あの御方はこの偲透花を贈ってくださった時があった。つまり、何が言いたいのかというと酷いことを行ってしまった貴方に対しての……不器用な周防殿なりの罪滅ぼしだったのだろうと思う。私は幸せになるのは許されなれなかったが、きっと貴方には幸せが訪れるはず……これまでの無礼を許して頂きたい」 どことなく周りの騒ぎを気にしながら、案内人の男は目に涙を浮かべつつ煌鬼へと静かに言った。 そして、彼は最後に煌鬼へとこのように囁きかけたのだ。 「この偲渡花のことは……むやみやたらに他言せぬようにお願い致す。不器用かつ恥ずかしがりやの周防殿は死しても尚、それを望みはしないと思いますゆえ。それでは、失礼致します。今宵は、心底……疲れ果てました」 かつて、中庭で見た魂が抜けた蝉の脱け殻の如く生気を失いかけてしまっているように覇気のない案内人の男を心配そうに見送りながら、立て続けに大きな事件があった夜はゆっくりとだが確実に更けていくのだった。

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