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第64話
無子が去ってしまい、虫の音すらしない静寂に支配された中庭に残された煌鬼と希閃は何故かは互いに分からないが、暫くの間、無言のまま立ち尽くしていた。
しかしながら、ふとある事を思い出した煌鬼が先に沈黙を破り、ある問いを投げかける。
「希閃よ、先程は……無子様を救う役目を押し付けて済まなかった。それとは別に聞きたいことがあるのだが、構わないか?」
「何だ、何だ……気味が悪いくらいにかしこまって____構わないぞ。して、聞きたいこととはいったい何のことだ?」
「希閃……確か、お前の両親は噂に名高い宗教の教祖とその信者だったと……以前、話していたが____【禍厄天寿】と【種なる脱皮】なる言葉を御両親から聞いた覚えはないだろうか?」
無子の口から出た意味深な言葉を尋ねた途端に、希閃が僅かながらに目を伏せてしまい、更には『この話題は聞きたくない』といわんばかりに煌鬼から顔を逸らしてしまう。
「そのような言葉は聞いたことはない。ただ、この世には口も憚るような卑しき邪神を心酔している者も数多くいるのは、幼子の頃からこの目で嫌という程思い知らされてきた。もしも、そのような怪しき言葉の意味が気になるというのであれば、明日にでも書宮殿にて調べたらどうだ?それはそうと、これから用があるのでな……済まないがこれで失礼する。煌鬼よ、よき夢を____」
先程とは一転して普段通りの笑みを浮かべながら、希閃は身を翻すと、そのまま王宮の寝所殿の方へと去っていってしまった。
煌鬼は、ひとり枯れた桜の木の側に残され、はて、これからどうしたものか____と悩み込む。
むろん、己の寝所へと戻り質素な布団の中に身を縮こまらせながら眠りの世界へと堕ちるというのも考えた。
だが、立て続けに大事件が起こってしまい、すぐには眠れそうにないと思い直す。そして、布団の中でのんべんだらりと無駄な時間を過ごしてしまうくらいであれば、このまま数々の書物が並ぶ《書宮殿》に足を運び【禍厄天寿】やら【種なる脱皮】とやらの意味を調べてみた方が良いのではないかと思いついたのだ。
一度そのような考えが思い浮かぶと、居ても立ってもいられない煌鬼は寝所にて眠りにつくのを諦め、中庭から大体五分程の場所にある《書宮殿》へと急ぎ足で向かって行くのだった。
*
(しまった……肝心なことを忘れてしまっていた____)
いざ、《書宮殿》に着いた所で、煌鬼は己の浅はかさを呪った。
つい先日、湖雨から来訪していた周防の命――更には、今もなお尊敬している世純の命が何者かによって奪われたという事件があったばかり。
当然の如く、王宮内の警備も昼夜関係なく厳しいものとなっていても何らおかしくはないのだ。元々、今回の事件が起こる前までは王宮内の重要な箇所以外の警備は昼夜問わず希薄であった。
しかしながら、警備人らも愚かではない。
彼らなりに厳重に話し合い、元々は希薄だった《書宮殿》も警備を堅めることにしようと話し合ったのだろう。
もしも、警護人の中に己が最愛の人だと慕っている朱戒がいるのであれば、何とか説得して中へ入れてくれることも可能だったかもしれない。
だが、今――ぎらぎらと目を光らせながら厳しく辺りを見回しているのは、よりにもよって甲警護人である朱戒を一方的に嫌悪している乙警護人の男であり、己に対しても悪意をぶつけてくる最悪の相手だ。
寝付けぬ夜に《書宮殿》に忍び込むという考えは、この時点で脆くも崩れさってしまった。
自分だけならばまだしも、仲間達や――ましてや、恋慕している朱戒にまで危害や迷惑をかけたくない。
そう思い、決意した煌鬼は警護人達に気付かれないように慎重な足取りで《書宮殿》から離れた。
とはいえ、寝付けぬ夜なことに変わりはなく、このまま寝所に戻るという選択肢は煌鬼の中にはないのも確かだ。
こうして、当てもなく王宮内をさ迷う羽目になるのだった。
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