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第65話

* 夢遊病者の如く、ふらふらと王宮内を当てもなくさ迷う煌鬼の耳に聞こえてきたのは、自国では聞いた覚えのない笛の音だった。 どことなく物悲しげなその甲高く美しい音色に、意図せず足を止めてしまったのだ。 これが、普段であれば「殆どの者が寝静まっているだろうこのような夜中に笛を吹くなんて何と非常識な____」としか思えなかっただろう。 しかしながら、その繊細かつ美しい音色を聞くうちに止めどなく涙を流してしまったのは理屈などどこかへと吹き飛んでしまうくらいに本能的に感動してしまい、無意識のうちに己の心が癒されていると自覚したためだ。 (もしかしたら、母も……この音色を聞いているのだろうか――主を失ってしまった……あの暗く狭い部屋で……独りで____) ここにきて、突如として世純の部屋に(事情があれども)半ば閉じ込められていた母の存在を思い出す。 孤独なまま暗き部屋で蹲りながら体を震わせている産みの母である翻儒の姿を、閉じた瞼の裏で思い描いた煌鬼は直ぐにでも世純のいた部屋へと戻るべく身を翻しかけた。 だが、その直後――己のその行動を思い直して中庭の端にひっそりと建っている東屋にいる人物が誰なのか理解すると、咄嗟にそちらへと駆けて行く。 東屋にて物悲しげな表情を浮かべていた人物が、あまりにも意外なために驚きを隠せず、じっとしていられなかったせいだ。 湖雨の第二王子【粗雀・天音之尊】であり、本来であれば、このような真夜中に異国であるこの場において護衛もつけずに独りきりで出歩いてはいけない立場の筈だ。 だが、暗き部屋に独りでいる母のことや湖雨の第二王子の行動に干渉するが故に自らに起こりうる重大な責任という心配事が吹き飛んでしまうくらいに魅惑的な音色に惹かれ、煌鬼はまるで桃燈の灯りに誘われる羽虫さながら、ふらふらと東屋にて笛を奏でている【粗雀・天音之尊】の方へと近づいていく。 すると、不意に笛の音色が途絶えた。 煌鬼は自らが近づいて行っているということに【粗雀・天音之尊】から気付かれたのかと思わず足を止めてしまったが、彼は此方に見向きもしないため、どうやらそうではないようだ。 笛の音色が止んだ直後、静寂に包まれる最中――舞を披露し始める。 【粗雀・天音之尊】の手振りはまるで蝶が飛ぶ姿に酷似していて優雅で幻想的たとしか言い様がない。しかしながら、その反面、足の動きは躍動感に満ちたものであり、忙しなく左右に動き続けているため、優雅さを備えつつも躍動感のある激しい踊りと捉えた煌鬼は奇妙だという思いを抱かずにはいられなかった。 そもそも、楽器の音色と共に舞を披露する ということ自体がとても奇妙なことだ。 今、【粗雀・天音之尊】は風に吹かれ擦れ合う葉の些細な音しかしない静寂の最中で何を思い、どのような意図を込めて不思議な舞を踊っているのか煌鬼には幾ら考えても分かりようがないのだ。 少しして、ふいに【粗雀・天音之尊】が動きを止めた。額には玉のような汗が滲んでるのが分かるが、依然としてその目は哀しげに揺らいでいる。 そこで、ようやく【粗雀・天音之尊】が此方側へと振り向き立ち尽くすばかりの煌鬼という存在に気付くのだった。

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