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第67話

* 以前に比べれば格段に警備が固くなった《書宮殿》に忍び込むわけにはいかない。 寝所にて赤子の如く安らかに眠るわけにもいかない。 そうなると、煌鬼が向かうべき場所は唯ひとつしかない。 (かつて世純様が過ごしていた場所へ行かなくては、おそらくは事件が起きたばかりで今は閉ざされてはいないはず……早く母が待つ場所へ行かなくては____) 匿ってくれていた恩人である世純を失い、孤独となり身を縮こまらせて怯えているであろう母を守るため、煌鬼は足早に宮殿の廊下を進んで行く。 頭の中に《母》という存在しか思い浮かべていなかったせいか、はたまたあまりにも急ぎ過ぎていたせいか、廊下の曲がり角を曲がろうとしていた際に誰かとぶつかってしまい尻もちをついてしまった。 「……っ____」 それは煌鬼だけではなく、ぶつかってきた相手も同じで、二人してほぼ同時にひんやりとした床板に尻をついてしまったのだ。 己の不注意によって、ぶつかってしまい尻もちをつきつつ痛みから顔を歪めている相手の顔を確認して、煌鬼は思わず息を呑んでしまう。 「誠に申し訳ございません。それにしても、賢子様……このような夜更けに、このような場所で如何なされたのでございますか?」 「煌鬼か……別に謝らなくてもよいよ。此方が考え事をしていた故、呆然としていたのだから……それよりも、兄上を……見なかったかい?また、兄上の発作が起きたんだ」 賢子が言う兄上とは、むろん第一王子である【天子】のことだ。また、発作というのは【天子】は時たま不思議な行動をすると周りの者らが噂しているのを煌鬼は昔から何度も聞いていたことがあるし、数は多くはないもののその様を目撃したことはある。 【天子】は夜更けにふらふらと灯りに惹かれる蛾の如く宮殿内をさ迷うことがあるのだ。 しかしながら、【天子】が夢遊病などという類いの精神的な病という事実はないのは王宮にて生活している皆が周知していることだ。 その度に弟である【賢子】や、更には婚約者ともいえる【亞喰光子】が血眼となって探しているのだろうということが容易に想像できる。 事実、煌鬼は正に今――その状況である【賢子】と鉢合わせした。おそらく、ずいぶんと疲れた顔をしているのだろう。 尻もちをついてしまい、煌鬼によって引き上げられてから少しして落ち着きを取り戻してきたとはいえ、その表情はどことなく沈んでいて更には目の下に眼窪が見えてしまっている。 「賢子様、このような夜更けだというのに天子様と……隠れ鬼でもなさっておいでですか?」 「うん……昔から随分と童子っぽい兄上のことだからね。つい先刻から探しているというのに、中々見つけられないんだよ……心優しき亞喰光子殿を心配させて、まったく困った兄上だ」 冗談めいた言葉を発しても、【賢子】は不快な思いを表情へ出すこともなく、同じように軽い調子で答えてくる。 疲れているだろうに、決して弱気な様を口にしようともせずに第一王子の【天子】より僅かばかりとはいえ己のことを気にかけてくれて立場など関係ないといわんばかりに平等に接してくれている【賢子】に対して煌鬼は尊敬の念を抱いているのだ。 とはいえ、そのように平等な態度を取るのは王族故に二人きりになった時だけなのだが、それでも王族の中には《守子如きに平等な態度を取る必要などない》と考えている堅物かつ冷血な者も多いため【天子】【賢子】【無子】の煌鬼に対する態度は極めて特殊だといえる。 それとは別に【賢子】は人間性の部分に関しても尊敬の念を抱かずにはいられない。 老若男女関係なく、彼は平等に接しているのだ。そして、それは民に対しても同じであり決して彼らを邪険に扱ったりはしない。 兄である【天子】に対してもそうであり、例の発作がある故に色々と苦労させられ、幾ら疲弊したとしても決して愚痴を溢すことなどなく、たとえ心の奥底では負の念を抱こうともそれを表に出したりしないのだ。 【天子】が傷付くことを知っているが故に____。 【賢子】が己の気持ちを押しころして無理をしているのは、どちらかといえば鈍感である煌鬼とはいえ、僅かばかり困ったような表情になりつつも穏やかな笑みを浮かべている彼の様子から何となくだが察することができた。 「賢子様、あまり……ご無理はなさらないようにして下さいませ____」 そんな健気かつ芯の強い【賢子】に対して、精一杯な気遣いの言葉を煌鬼は口にする。咄嗟に、無難な言葉しかけることが出来なかったのだが、それでも目の前にいる相手は『気にしなくてもいい』といわんばかりに優しく微笑みかけてくれた。 そして、唐突にある思いが自然と煌鬼の頭へと流れ込んできた。 (この方は……湖雨の第二王子によく似ている____雰囲気も考え方も、その素振りも……) そして、煌鬼はぎゅっと拳を握り締めて決意した。 つい先刻から、今に至るまで気になっていることがあり、ずっと心の中がもやもやしていたのだ。 「賢子様……ひとつ尋ねたいことがあるのですが、宜しいでしょうか?その、王族の血筋に関すること――つまりは月桜の国に関しても重大な件に踏み込むような疑問なのですが一介の守子でしかない私が尋ねても宜しいのでしょうか?」 「遠慮などせずに申してみるといい___」 「それでは、無礼を承知でお尋ねします。この月桜では……代々王族の中に甲(α)から乙(Ω)へと成長の途中にて変化する――変異種ともいえるような特殊な体質を持つ者はおりましたか?」 月桜とは、煌鬼が今仕えている国の名だ。 湖雨の第二王子である【粗雀・天音之尊】から信じ難いような体質の変化を聞いて、ふとこの国にもそのように特殊な変異を辿った王族がいるかどうか気になって仕方がなかった。 「はて……そのように特殊な話は聞いたこともない。ただ、異国である湖雨や他の国にはそのような体質を持つ者も、希少とはいえいるみたいだけれど……それが、どうかしたのかい?」 「い……いえ、単なる噂を聞いただけです故にお気になさらず」 さすがに、【粗雀・天音之尊】が甲から乙へと変異した特殊な体質を持つ存在なのですとは言えず、慌てて笑みを浮かべると何事もなかったかのように誤魔化した。 「ああ、でも……確かに甲から乙へと突如として変化した王族は未だかつて出ていないけれどね、きちんと純粋な王族の血が流れているのかどうかを見極める儀式はあるんだよ。表向きは健康を願うものだけれどね。ほら、ちょうど明後日に行われる《天寿之儀》だ。あの時に透明な液体を飲むだろう……あれは実のところ単なる水でも酒でもないんだ」 【賢子】の話を纏めると、こうだ。 未来永劫の健康を願う際に《天寿之儀》に出てくる透明な液体を飲むと、問題なく甲(α)であるなら液体は透明のまま。 だが、もしも液体の色が変化するようであるならば王族の血に異変が起きていると捉えられ、それすなわち甲(α)から乙(Ω)へと変化したと見なされるらしい。 ちなみに、甲(α)から丁(β)に変化することは確実に有り得ないので除外されるそうだ。 そんな話をしている内に、空が明るくなり始め、ようやく暗き夜から朝を迎えることとなったのたった。 結局、その日の内に【賢子】が【天子】を見つけることは叶わなかった。

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