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第75話

王宮の桜の木の近くには、普段から警護人らが訓練として使用している人工的につくられた池がある。 【護鎮池】と呼ばれるそれは、王宮の警護人しか入ることがないといわれている。深さはかなりあり、いくら警護人といえども油断するとすぐに溺れかねない危険な場所といえるそうだ。少なくとも、日頃から鍛練に慎む警護人といえど一人きりで入ることは決してないという。 いわずもがな、煌鬼と朱戒はこの池で泳ぎの練習をしているのだが、あまり長いこと訓練が出来ないのが悩ましい。その理由は、煌鬼が泳ぎに慣れていないということもあるが、それよりもむしろ環境による要因の方が大きい。 そもそも、この池の【水】は一般的な真水ではなく海水だ。だから、息継ぎをする度にしょっぱい水が口の中に入り込み苦しい思いをすることになる。ましてや、体に少しの傷でもあろうものなら地獄を見ることになるだろう。 月桜には年中を通して【雨】が降らない。 王宮内の水場には異国から定期的に汲み上げてくる真水は存在するが、王族を護衛する訓練のためとはいえ、たかだか守子という下の立場の者のために高価かつ貴重な【真水(しかも大量)】を浪費するわけにはいかないと海から汲み上げてきた海水でつくられたのが、この【護鎮池】なのだ。 ただ、顔すらはっきりとは思い出せない人物から聞いた覚えがある話なのだが――かつては【真水】が溜まった池がこの場にあったという噂を耳にしたことがある。 でも、それも本当なのかどうかは分からない。というよりは、分かりようがない。 少なくとも、今の煌鬼にとってはそんな信憑性のあるかどうかすら怪しい噂話よりも《近いうちに執り行われる儀式を失敗なく遂行するために泳ぎを習得すること》の方が遥かに重要だと思えた。 「よし……取り敢えず休憩しよう。海水を長いこと吸い込み続けるのは危険だ――だが、先程よりも遥かに上達している。見直したぞ」 ぶはっ……と勢いよく水中から地上へと浮上してきて空気を体内へ取り込んだ煌鬼へと朱戒は手をぱん、ぱんと鳴らしながら言う。 そして、辛い訓練をやり遂げようと努力している煌鬼に対して情けをかけてくれたのか、朱戒は彼の体を引き上げようと手を掴みかけた時のことだ。 「ひ……っ____!?」 声が引きってしまった。 急に、水の底から伸びる何かに足を掴まれて引き摺り込まれそうになってしまったのだから、それも無理はない。 しかし、いったい何が深い池の中から足を掴むというのか。そんな疑問が煌鬼の頭をよぎったものの、そんなことよりも遥かに恐怖心の方が強い。 足を掴むその【手】の正体が何であれ、このまま何もせずに時が経ち続けてしまえば暗い池に沈み命を落としてしまうのは目に見えている。 だが、今の煌鬼にとって幸いなのは朱戒がいることだ。 最初は煌鬼がうまく泳げないから足がひきつってしまった程度に思っていて力を込めていなかった。 しかしながら、それから少しして明らかにおかしいと異変を感じとったのか、やがて煌鬼の体を地上へと引き上げるべく本気で力を込めて最終的にはそれに成功した時には互いに息を切らせつつ顔を合わせると、ほぼ同時に安堵の息を漏らすのだった。

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