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第76話

しかしながら、朱戒の大きな手を掴んだと思って安堵したのも束の間、煌鬼の視界はふっと暗転してしまい靄がかったように何も見えなくなっていく。 朱戒が側にいてくれることに対して安堵しきり油断したためか、それともつい先刻起こったあまりにも不可解な体験からくる恐怖心のためか――はたまた両方のせいか、とにかく煌鬼は気を失ってしまった。 かろうじて気を失ってきまう直前に理解できたのは、此方を動揺しながら見つめつつ何事かを必死で叫んでいる愛しい男の歪んだ顔と唇に何か暖かいものが触れてくる感覚だった。 * はっ___と気がついた時には煌鬼は池のすぐ側に存在する《涙奏樹》の真下に仰向けとなっていて、更に相変わらず心配そうな顔つきで此方の様子を伺っていた朱戒と目が合うという状況だった。 《涙奏樹》とは、年に何度か池で溺れた哀れな童子らの魂が宿ると信じられていて、尚且つ蒼白く幻想的な花を年に何度か咲かせ、まるで池で命を落としてしまった童子らの魂が救いを求めるべくような『ひっく、ひぃっく』という花片同士が擦れ合う音が夜な夜な聞こえてくるという不吉といえなくもない噂話がある不思議な大樹だ。 だが、今は昼間だし更には頼りがいのある朱戒というぶっきらぼうな男が側にいてくれているため煌鬼は《涙奏樹》に対して不安など感じてはいない。 「まったく、いったい何があったというのだ?いくら何でも悪ふざけが過ぎると思っていたが……どうやら此方の勘違いだったようだ。それに、いくら訓練とはいえ無理をさせ過ぎてしまった――誠に済まなかった」 「謝るのは、むしろ此方の方だ。周りのやつらに声をかけてはみたものの、泳ぎの訓練に付き合ってくれたのは朱戒だけだった。それに、さっきのは水中に入る前に行うべき体操が不十分なせいで起きたこむら返りのせいで――完全に俺のせいだ。そ、その……助けてくれて……ありが……と……う……っ____」 言い終える前に、煌鬼は朱戒の頼もしい胸元へと引き寄せられていた。 今まで他人に抱き締められる記憶などなかった煌鬼はそれだけで困惑してしまい何も言えなくなってしまう。それでも、これが周りにいる大して仲が良くなどない他の守子達の誰かであったならば咄嗟にとはいえ「止めろ」と叫びをあげていただろう。 そもそも、煌鬼は誰かから抱き締められること自体に慣れていない。 平民の童子のように両親から抱き締められた記憶など持ち合わせてはいないし、幼少の頃からこの世を去ったと聞かされていた父はこの国の現王であり、尚且つ母は精神錯乱の末に世純の寝所の一室で保護されていると知ったばかりだ。とてもじゃないが、今さら「寂しいから抱き締めてくれ」などと口が裂けても言えないし煌鬼の寂しさや不安など理解してはくれないだろう。 「煌鬼よ……お前は____何を隠している?何を、そんなに不安に思っているのだ?いくら平静を装うともお前の顔を見ていれば分かる……この王宮にお前が来た時から――ずっとお前を見ていた。だから、お前が今何事かを不安に思い心を閉ざしているのが分かるのだ」 「……っ____母を……母を救うには……どうすればいいのか分からない。世純様もこの世を去り、雀として……夜な夜な王宮の桜の下に姿を現し何事かを訴えかけてくれようとしてはいるが……それでも解決の道に辿り着くには程遠い……っ____手の届く距離に母がいるのに救ってあげられないのが……とてつもなく苦しい」 ここにきて、煌鬼は初めて自身の心境を他人である朱戒へと告白した。王宮に来た頃から親交が深く最大の友ともいえる希閃ではなく、散々苦手だと敬遠してきた朱戒相手であるにも関わらず、ここまですらすらと極自然に己の感情を吐露できたことに対して煌鬼は驚きを禁じ得ない。 しかしながら、ここにきて朱戒に対して《母へ抱く想い》吐露することは間違いなどではないと煌鬼は本能的に感じていた。 だあらこそ、ほとんど詰まることなく己の素直な想いを告げられたのだ。 (____告げるなら、今だ。まだ彼に言えてなかったことがあるじゃないか……今言わなければ……またしても、臆病者に戻るだけの日々が続く……だから、さあ____) 「こんなことを頼むのは申し訳ないと分かってはいるし面倒事に巻き込むのも無礼だと分かっている。でも、愛する人と共に母を救う手立てを探したいという自分の心はどうにもできそうにないし、私は朱戒のことを愛している。私の願いを受け入れられないというのなら、このまま去ってくれても構わない……お前自身に決めてもらいたいのだ」 既に身を起こし、大樹の幹に寄りかかっている煌鬼。 そして、そんな彼の言葉を聞いて朱戒は一度離れると、そのまま身を翻して無言のまま何処かへと向かって歩いていく。 愛する人の背中を見送った後で、煌鬼は両膝に顔を埋めながら嗚咽を漏らす。 『彼の選択は間違いではない。確かに精神錯乱状態であり異常である母を救うべく道を探すのを手助けしてくれなんていうのは重い話だし、そもそも朱戒にだってこれから送りたい人生はある』――。 自分は何という愚か者なんだ、と涙を流す。 散々苦手だと思い敬遠してきた朱戒に甘え、いざ思うようにならないと拗ねるだなんて、それこそ童子のようだと自分の愚かな考えに押し潰されそうになっていると、ふいに真上から気配を感じて恐る恐る顔を上げた。 そこには、気まずげに眉をひそめている朱戒がいて罪悪感に押し潰されそうになっている煌鬼を見下ろしているのだった。

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