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第77話

「いつまでも膝を抱えて濡れ鼠のようになっていては病にかかってしまうではないか。これ以上、余計な面倒をかけさせるな。だが、お前の母とやらを救うのは別だ。お前一人だけでその母とやらを救うために悩みを押し込めようとするな……私の存在を無視するな。これからも、共にいてやる」 「こんな…………王と王妃以外の者との血が混じっている庶子である俺と共に過ごすというのが……どういうことか分かって言ってくれているのか?それとも、単に……同情心から……っ____」 顔を上げ、戻ってきてくれた朱戒の顔を真っ直ぐに見つめつつ僅かばかり興奮しながら尋ねる。 しかし、全てを言い終える前に有無を言わさないといわんばかりに朱戒から引き寄せられると、半ば強引に唇を奪われて強制的に言葉を発せなくなってしまう。 ゆっくりと唇が離れていく。 「まったく何故にお前は、愚か者なのか。そのように煩わしく思っているのならば――此処にいない。今、こうしてお前の目の前にいるのは共に人生を歩み続けてゆきたいと嘘偽りなく思っているからだ」 煌鬼の目から自然と涙が溢れてくる。 しかしながら、これは悲しみや寂しさからくる涙ではない。 咄嗟に言葉すら出てこなくなってしまうくらいの喜びの涙だ____。 * 王宮へと戻ると、煌鬼は今までずっと誰にも告げることのできなかった【世純の隠し部屋】へと想いが通じ合った朱戒を連れてゆく。 とはいえ、流石に太陽の日の光が照らす真っ昼間に連れていくことはできなかったから守子達が眠りにつくのを待ち、静かな虫の音だけが響き朧気な月の光が照らす深夜となってから、ようやく行動を開始した。 極力足音を立てないように注意しつつ【世純の隠し部屋】へと歩いていく最中、青白い光を放つ月の光を浴びながら煌鬼は初めて心の底から独りぼっちでいる母の身を案じていることに気が付いた。 【世純の隠し部屋】へ到達するためには、必ず《中庭》を通過していかなければいけない。 抜け道など存在せず、それすなわち――どうしても《中庭にそびえ立つ桜の木》を目にすることになるということだ。 実をいうと煌鬼は、貧民街からこの王宮に仕えるべく連れて来られた幼いうちから、今に至るまでずっとこの《中庭にそびえ立つ桜の木》に対して良い感情を抱いてはいなかった。 別に桜という花が嫌いな訳ではない――というか満開の桜の花を今まで見た覚えがないのだから嫌いだとか好きだとかいう感情を抱きようもない。 ただ、これが《桜という花が咲く》という話を、かつては雨が降っていたという頃から王宮に仕えている者から聞いただけに過ぎない。 しかしながら、桜の花が満開となる光景を実際に見ていないにも関わらず、幼い頃から、この《中庭》を通り過ぎて《枯れる桜の木》を見る度にどことなく不安となり胸がざわつく。 (この桜の木に特別な想いや――記憶なんてない筈なのに……どうして、こうも不安になるのか……) などと、またしても不安な気持ちになりながらも、そこを急いで通り過ぎようとした時――ふと、どこからか強い視線を感じたような気がして足を止めてしまう。 そのせいで、後ろから追い掛けてくる朱戒とぶつかってしまったのだが、そんなことよりも煌鬼には気になることがあった。 ほんの一瞬とはいえ、そびえ立つ桜の木の太い枝に誰かが座っているように見えたのだ。 気のせいか、と目をぱちぱちと瞬きしているうちに――今度は強い風が吹きすさび、思わず煌鬼は目を閉じてしまった。 その直後____、 『きゃははっ……』 『もう、ずるいんだから……っ……待ってよ、待ってってば__儒……』 今度は、誰かが笑い合う声が聞こえてきた気がして、またそれと同時に先程よりも不安さが増した気がした煌鬼は耳を両手で押さえながら身を屈めてしまった。 「おい………聞いているのか。まったく、先程から何度も呼びかけているたいうのに上の空とは。よもや、またしても具合が悪くなったりはしていないだろうな?前のような面倒事は、ご免だ」 朱戒に肩を揺さぶられ、ようやく我にかえった煌鬼は慌てて桜の木を見上げた。 しかしながら、そこには誰もいない。 水を浴びていないため乾ききった葉が擦れ合う微かな音が聞こえてくるだけだ。枯れた木に用はないといわんばかりに、鳥のさえずりさえも聞こえてはこない。 (だが、確かに妙な懐かしさを感じた……いったい……何故なのか____) いつの間にか無意識のうちに一筋の涙を流していた煌鬼がそれを拭いつつ心中で己に問いかけていた最中のこと――ふと、先程の幻じみた光景の中である違和感を抱いたのを思い出すと、傍らにいる朱戒の存在さえ忘れてしまい脱兎の如く走っていく。 むろん、母である翻儒がいる【世純の隠し部屋】へだ。 それを見た朱戒は、怪訝そうな表情を浮かべつつも、慌てて煌鬼の後を追い掛けてゆくのだった。

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