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第80話

桜の木の幹には、所々表面が剥がれかけている箇所がいくつかある。 そして、そういった箇所は茶色の樹皮が古くなり剥がれているせいで、白くなっているのだ。なおかつ、煌鬼の目に飛び込んできたのは、その白く見える幹のある箇所に深々と文字のようなものが彫り込まれているように見えるといった実に奇妙な光景だ。 とはいえ、決して広い範囲で樹皮が剥がれていて白く見える部分が存在している訳ではない。 (この部分をもう少し剥がせれば、この木の幹に何が隠されているのか、分かるかもしれない……) 既に樹皮が剥がれかけているし、枯れて弱っている桜の木とはいえ、それでも煌鬼は行動に移すのを躊躇してしまう。 いくら雨不足により威厳がなくなりかけてきているとはいえ、この桜の木は代々王族の行く先を見守り、歴代の王族と親族から崇められてきた存在である。 しかも、煌鬼は現王の庶子という立場であり一介の守子でしかないため、己が桜の木を傷つけるような事をしていいのだろうかという疑問を抱いてしまい不安に思ってしまったからだ。 (もしも、この崇高なる王宮の桜の木を傷つけてしまったのを何者かに見られていたら、よくて牢屋に長い年月閉じ込められ下手したら、流刑だ――どこぞのよく知らぬ島に一人で放たれる……海の上で、ただひとり鳥につつかれ孤独に生涯を終えるという耐え難い屈辱を味わねばならない____) 悩みぬいた後、煌鬼は決意した。 剥がれかけている幹の部分を、なるべく慎重に――かつ時間があまりないため、なるべく早めに剥いていく。 むろん、周りの警戒を怠らぬようにだ。 目線を四方八方に動かし、尚且つ誰かが来ないかどうか耳を澄まして辺りの変化を逃すまいと気にかけた。 幸いなことに、誰かがくる気配はなく安堵の息を漏らしかけたが、はっと我にかえり再び警戒しながら作業に集中する。 手が、ふと止まる。 それは作業が終わったことを意味しているのだが、それだけではなく目の前に飛び込んできた思いも寄らない光景に対して呆気にとられてしまったせいでもあるのだ。 何者かが無我夢中で気力を振り絞り、血文字で遺したといわんばかりに乱れた詩歌が王宮の桜の木の幹に今まで隠されていたことに対して煌鬼は愕然としてしまう。 【教え乞う___】 【希有なる存在、神の気配____】 【未だに、その謎は解けず____】 ____】 【悲しきは、烏____】 【夜毎 、 鳴き続ける なり____】 しかしながら、もしもこの謎の詩歌がそこいらに蔓延る有象無象の守子達のうちの一人だったならば、特にこれを目にしたところで屁でもなかった。 それは、煌鬼自身にとって碌に関わりのない相手であり冷徹だろうが、無視してしまえばいいだけの話だからだ。 幸いなことに、今も周りには人のいる気配すらない。それに、幹の剥がれた部分は容易に修復できるように細心の注意を払って丁寧に剥いていたのだから、割と手間をかけずに元の状態に戻すことは充分に可能だ。 それをする前に、念のためにと懐に隠し持っていた和紙と筆を取り出すと、桜の木の幹に長いこと封印されていた文字を素早く書き取る作業に移る。 その途中に、ふと――筆を動かす手を止めてしまう。 その詩歌に隠された、真の意図に気付いたからだ。 【《お》しえ こ《う》____】 【《け》うなる そんざい、かみの けは《い》____】 【《い》まだ に、その なぞは とけ《ず》____】 【《か》なしき は 、から《す》____】 【よごと 、 なきつづける なり____ 】 血文字の先頭と末尾に、筆者が伝えたかった意志が現されているということに気付いたのは、煌鬼が爽やかな早朝の夏風に誘われ、この中庭を訪ねてきて暫く経ってからだった。 (まさか……歌栖は___これを桜の幹に巧妙に残したが故に、何者かから命を奪われたとでもいうのだろうか――しかし、そうだというのならば下手人は何の理由があって____) その直後、背後に何者かの気配を感じた煌鬼は慌ててそちらへと振り返るのだった。

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