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第82話

「……っ____」 あまりの恐怖と混乱から、咄嗟に目を瞑ってしまう。 体がうまく動かなかったせいで、逃げるのが遅れてしまった。 しかしながら、煌鬼が心の中で予想していた最悪な事態はいつまで経っても起こる気配がない。 それどころか、周囲は静寂に包まれている。 まるで、無子が煌鬼に凄まじい敵意を向けて襲いかかってきたのが夢だといわんばかりに____虫の音すら聞こえてこない。 しかし、それは一瞬のことだった。 その直後、今まで音が止まり静寂に包まれていたと思い込んでいた煌鬼の耳に何者かの悲痛な声と荒い息遣いが聞こえてくる。 その悲痛な声の持ち主は、先程まではこの場にいなかった筈の予想だにしていなかった人物だ。 もしかしたら、少し前から、物陰に身を隠しつつ煌鬼らの動向をひっそりと見守っていたのかもしれない。 「____い、允琥……っ……!?」 煌鬼が痛みを感じずに、尚且つ突如として目の前に現れ、そうなるのが当然のことだといわんばかりに、脇腹から流血して地に伏して苦痛の声をあげているのは、今は亡き歌栖へと恋心を抱いて親密となっていて己とも顔見知りという守子である允琥だ。 第三王子である無子の体を突き離すと、そのまま煌鬼は脇目もふらず、地に伏して荒い息遣いで苦痛をあらわにしている允琥の元へと駆け寄った。 いつの間にやら凄まじい速さで煌鬼の元へと駆け寄って、しかも庇うように彼の体を突きは飛ばした允琥の白上衣の脇腹部分から、じわりじわりと赤い染みが広がっている。 それが、彼の血だということは瞬時にして察せられた。 (落ち着け……あの異様な行為を行った無子様のことは一旦置いておくとして、今すぐにでも対処しなければならないことは脇腹を負傷した允琥の対処だ――まずは血がこれ以上でないようにしなければ……っ____) そう考えたものの、専門的知識を幼い頃から厳しく学んだ賢い医官でもなく、単に王族の世話をするしか能のない煌鬼は真っ先に何を何をするのが正解なのかが明確には分からない。 だが、呆然と突っ立っているだけでなく、とにかく何か行動を起こしてみない限り、己を庇い、その身を挺して危険に曝されている允琥の症状が悪化するということだけは、ぎりぎりと心が締め付けられるような錯覚に陥ってしまうくらいには理解した。 そして、ふと――かつて起こった、あることを思い出したのだ。 あれは、かつて煌鬼がまだ他人に対して今のように心を開かず、自らの殻に閉じ込持ってばかりいた頃の、ある真夏の一夜の出来事だ。 ◇ ◇ ◇ ____ ____ あれは、去年の一夜のことだったか。 山積みとなった政に関する巻物に、おおかた目を通して印鑑を押すという退屈かつ単純極まりない公務が終わり、一息つきたいが故に煌鬼は部屋を後にした。 人目が煩わしいとさえ感じていた頃だったため、できるだけ人の気配がないような静かな場所がいいと思い、その時は細心の注意を払いながら、原則的に男人禁制という命が敷かれている《妃宮殿》が建つ【寿区】の境目付近まで散歩に赴いたのだ。 因みに、煌鬼が普段生活をしているのは【福区】の中央に存在する《帝宮殿》であり、原則的には女人禁制の場だ。 とにかく、煌鬼は普段から他の守子達と共に公務を行う部屋から出ていき、更にぎらぎらとした目付きで辺りを徘徊する警護人らの目を掻い潜ると、【福区】と【寿区】との境目だという目印のために互いに向かい合うようにして植えられた二対の月桂樹が見えた。 その月桂樹の側に二人の人物がいるのだが、一人は見知った男____。 そして、もうひとりは自分よりも少し年下であろう少年が大粒の涙を流して両手で顔を覆いながら、しゃがみ込んでいたのが見えたのだ。 周囲を気にしているせいか決して泣き喚いているわけではないものの、両手で隠しきれていない頬からは涙が溢れ、開かれた手の隙間から零れ落ちている。 そして、煌鬼はその少年を今まで一度も見たことがないということに気が付いた。 そもそも、その少年の格好はみすぼらしく王族でなく身分の低い白守子ですらしないような所々穴だらけの汚ならしい衣服を身に纏っていたのだ。 (____あの少年は、この王宮に仕えている身分の者じゃない) (____おそらくは、貧民街からきた抜人だろうが――まさか、あのように幼いなんて、しかも格好はともかくとして顔だけは小綺麗そうだというのに……) 煌鬼が一目でそのように感じたのは近頃、一般の民や最下層の民が暮らしている【貧民街】から抜け出して、あわよくば王宮内に住みつこうと身を潜めたり、そうでなくとも王宮内の食い物を盗もうと企み実行する【抜人】が後をたたないからだ。 むろん、【抜人】は見つけたら即座に首をはねられる。恩赦を受けても、流刑に処せられる。それは、老若男女関係なく罰せられる。 そして、滅多にないこととはいえ、たとえ年端のいかぬ童子の【抜人】だとしても変わりはしない。 しかし、歌栖はあろうことか顔の綺麗な少年を見逃した。 厳しく罪を問う言葉さえ投げかけはしなかった。 そればかりか、彼は少年が転んだせいで怪我した右足を介抱したのだ。 確かに周囲が黒にまみれた真夜中とはいえ、万が一警護人に見つかってしまえば、自らも処せられる危険があったというのに、心優しくお人好しな歌栖は少年に罪を問いかけもせずに、その場から煙のように立ち去ったのだ。 ◇ ◇ ◇ (允琥が奴に惚れているのも……今ならば分かる気がするな____) そんな、らしからぬことを考えた煌鬼だったが、すぐにそんな場合ではないと慌てて思い直す。 そして、自らが身に纏っている上衣を急いで脱いだ。更には、びりびりとそれを渾身の力で引き裂く。 引き裂いた後、息も絶え絶えの允琥の傷にぐるぐると、何重にもきつく巻き付ける。 すると、不安だったが暫くすると血が流れるのが止んだことに、取り敢えずは胸を撫で下ろす。 しかし、そうとはいえ安心してはいられない。 ここから先は、流石に自分だけでは――どうにもできない。 允琥が負った傷が再び開かないように細心の注意を払って優しく彼を抱え上げ、煌鬼はある場所へと向かって歩いて行くのだった。 ◇ ◇ ◇

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