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第84話
「何と……奇怪な石か。このような物は、吾が医師を志したばかりの時も、むろん今とて目の当たりにしたことがない。ああ、何と____」
と、相も変わらず石のような物体に釘付けとなっている慧蠡は呟いた。
しかしながら、何事かを言い終える前に一度口を閉じて言葉を呑み込む。おそらく、側にいる煌鬼にそれを聞かれたくなかったのだと思われたが、奇怪な石のような物体よりも慧蠡の様子が気にかかっていたため、その一度は呑み込みかけた言葉を聞き逃すことはなかった。
慧蠡は、どことなく微睡んだような目付きになり恍惚そうな表情を浮かべながら確かに、こう呟いたのだ。
『ああ、何と……美しきことか』____と。
普段の煌鬼ならば、慧蠡がそのような言葉を無意識のうちに呟いたとて、単なる気紛れかと特に気にすることはなかっただろう。
しかしながら、何故だか無性に気になってしまった。
それは恍惚とした表情を浮かべながら此方のことも見向きもせずに、一心に石のような物体に視線を注いでいる慧蠡の態度に単純に恐怖を覚えたからだけではなく、何ともいえぬ嫌な感じを抱いたからなのだが、おそらく今の慧蠡にそれを伝えたところでどうにもならないと判断した煌鬼はそのまま無言を貫いた。
そして、暫くして慧蠡は熱にうなされたかのような妙にふらついた足取りで、またしても別室へと足を運ぶ。
更に、今度は楕円形の盆ではなく透明な液体がほぼ満杯に詰まった瓶を持ってきて、ご丁寧に白い艶々とした素材の手袋をはめた手で石のような物体を持ち上げると、おもむろにそれを瓶の中へと入れた。
ぽちゃん、と音をたてた後でそれは見る見るうちに瓶の底に沈む。
暫く無言のまま、その光景を慧蠡から少し離れて見ていた煌鬼だったが、石のような物体に大した変化はないように感じた。
そのため、勇気を振り絞るようにして軽く息を吐くと、少し遠慮がちにとはいえ未だに自分から背を向けたまま石に魅力されている慧蠡の元へゆっくりと近づいていく。
そして、意識せずとも小刻みに震えてしまう右腕を何とか慧蠡の肩へと伸ばすと、ぽんと軽く彼の肩を叩いた。
「____煌鬼よ、如何した?吾の顔に、何かついているか?」
後ろで一纏めにしている慧蠡の髪が、涼をとるために開きっ放しとなっている黒い丸型の格子窓から吹いてきた夜風によって、ふわりとなびく。
そして意外なことに、慧蠡はすぐに此方へと振り返ったのだ。更にいうと先程までの奇妙ともいえる恍惚さなど嘘だったかのように払拭されている。
戸惑いの表情を浮かべつつ、真っ正面から慧蠡の顔を直視しきれず咄嗟に視線を全く別の方向へとさ迷わせている煌鬼に対して、普段通りの屈託のない笑みを向けながら、ごく自然に問いかけてきたため、返答の言葉に詰まってしまう。
「け、慧蠡よ――その、結局のところ無子様と允琥の容態は……如何なのだ?」
声が若干震えてしまっているのを隠しきれていない煌鬼が、それでも、出来うる限り自然体となるべくことを意識しながら、すぐ側に横たわる無子と允琥を見つめる。
そして、何とか話題をすり替えることに成功し慧蠡へと尋ねた直後のことだ。
「ああ、そのことか。見てみよ、貴と同様に吾も誠に驚愕なのだが――未だに顔色は優れているとは言い難い。とはいえ此処に運び込まれた時と比べ脈も安定し、更には呼吸も安定してきている。つまり、二人共命の危機は免れたということだ。おそらく、貴の思いが通じたのと応急処置が功を奏したのであろうな」
慧蠡の言葉を聞いた途端に、煌鬼は何とも言い様のない感情を覚えた。
まるで喉に魚の骨が刺さったかのような、そんな微かな違和感____。
しかし、その正体が正確に掴めきれない以上、何と言えばいいのかが分からず、結局は「ああ、それならば良かった」などと不安を拭い去り言葉を濁すしかなかった。
「今宵は、この二人の身は吾が預かるとしう。それはそうと、吾が先程から気になっていることがあるのだが……尋ねてもよいか?」
「____何だ?」
「煌鬼よ……誠に言い難いことなのだが、貴は何者かから恨みでも買っているのではないか?現に、この第三王子は利用され……この允琥なる者はそれに巻き込まれた。何か、貴の命を奪おうと企む愚か者に心当たりはないのか?」
奇妙な石の正体よりも、何よりも解決しなければならない問題を容赦なく慧蠡の口から突き付けられて、思わず眉間に皴が寄り、更には無意識のうちに、ぎりりと歯を食い縛る。
そのせいで、下唇から血が流れて口の中に顔を歪めずにはいられないほどに苦々しい味が広がる。
まるで、鉄を口に含んでいるかのような苦味____。甘味が何よりも好みである煌鬼にとっては、今の状況は正に苦痛としかいいようがない。それに、自分と允琥――更に無子や慧蠡といった他の者を危険に曝した明確な姿なき不届き者を思い浮かべたたげで屈辱に支配される。
しかし、それでもふつふつと涌き出てくる凄まじい怒りと僅かながらの不安を何とか静めると、無言で慧蠡に向かって首を左右に振るのだった。
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