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第85話

* * * 慧蠡の寝所を後にした煌鬼は、夜が明けたばかりとはいえ身分の低い白守子や調理人といった下人と呼ばれる雑用係などが起き出して動き回る王宮内を観察しつつ、自らの寝所へと向かって一人で靄に覆われている中庭を歩いていた。 そして、その途中で二対の月桂樹を横切ろうとした時に意外な人物が、その場にしゃがみ込みながら少し離れた場所にある池を遠い目をしつつ呆然と見つめている様子に気が付いて、ふいに足を止めた。 そして、二対の向かい合う月桂樹の元へと向かって朝靄のおかげで幻想的な風景となりまるで夢の中のような風景と化した中庭をそのまま歩いていく。 むろん、人もまばらな早朝ゆえに派手な音を出さぬように警戒しながらだ。 「希閃よ……このような場所で、このように早い時間から……いったい何をしているんだ?お前は今や赤守子という重要な纏め役ではないか。お前の下にいる立場の守子達が、探すのを手間取り困惑してしまうぞ?」 「何だ……煌鬼か。今やお前とて私の下の立場にいる黒守子だ。その理屈ならば、たかだかそんな下らないことで、お前も困惑してしまうというのか?まあ、それはともかくとしてもだ、こうして腹を割って話すのは何だか久々ではないか。やはり、お前はそうでなければ。ところで、煌鬼よ……随分と疲弊しているようだが、きちんと眠れているのか?」 すると希閃は、背後に立つ煌鬼に対して振り返りもせずに、ひたすら穏やかに波立つ池の水面へ目を向けたまま、《黒守子》と《赤守子》という身分間での違いなど気にかけることもなく、かつて同等な立場として気兼ねなく接していた時のように砕けた口調で問いかけてくる。 「俺のことなど……心配する必要はないぞ。だが、希閃よ――何故に、先程からこの名もなき池などを熱心に見ているのだ?ここには、何も____」 「何も、ない____誠に、そのように思っているのならば、煌鬼よ……お前もまだまだ未熟者だな。お前は、これだけ長く王宮に仕え……更には毎日のように、この池を目にしているというのに、この池に関する不気味な噂すら知らぬのか?そして、その噂が流れることとなったきっかけの話も知らぬときたか。まったく、つくづくお前は何と御目出度い奴か…………」 かつて、身分の差など存在しなかった頃のように愉快げに笑いながら、希閃から、からかいの言葉を突きつけられてしまった煌鬼は己の不甲斐なさを感じて黙り込んでしまう。 しかしながら、悪い気はしなかった。 童子の頃は、これと似たようなことが、しょっちゅうあったからだ。 幼い童子の頃から希閃は賢く、更には四六時中といっても過言ではないほど周りに人々が集まって尊敬ともいえるような眼差しを向けられていた。それでも暇のある時は、周りから離れて煌鬼の元へとやってきて、自らも王宮に仕えるための雑務で忙しいというのに、からかいの言葉を放ってはいたものの此方へ会いに来てくれて、やがて唯一無二の親友という間柄となったのだ。 「やはり、お前には敵わないな。賢き男たる希閃よ、愚鈍な俺に……この池に伝わるという不気味な噂とやらを教えてはくれまいか?」 ぽちゃん……っ____と、何かが跳ねたような音が聞こえてくるが、煌鬼の目は未だに此方へと目を向けず、このまま水面に吸い込まれるのではないかと思う程に夢中でろくに瞬きすらせずにいる希閃の横顔を真っ直ぐに見据えながら尋ねる。 「かつて、この池のほとりで……命を落とした守子の男がいたそうだ。とはいっても、その男は単に足を滑らせて溺れて命が果てた訳ではない。約束を交わす程に信頼していた者から裏切られ、約束とやらに繋がる【望み】とは裏腹に命を落としてしまった。故に、この池には今でもびしょ濡れとなった悪鬼が這い出てきて裏切った相手に対する恨み言を呟きながら夜な夜なさ迷うだとか、雨が降る夜に童子を見かけると、この池に引きずりこもうとするだとか……そういった噂が守子共の興味を引き続けている。げに、恐ろしきは____」 と、唐突に希閃は言葉を呑み込むと今までの様子が嘘だったかのように穏やかに微笑みかけてくる。 そして____、 「何とも辛気臭い話をするのは、どうにも私らしくないな。それよりも、どうだ……煌鬼よ。最近は公務尽くしだったゆえ、今宵は非番をもらっているのだが……久々に《娯支店区》へと行き、一杯やらぬか?」 煌鬼には、久々にゆっくりと交流する親友の提案を無下に断わる理由などなく、快くそれを受け入れるのだった。 *

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