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第86話

◇ ◆ ◇ そういえば、久々にこの《娯支店区》へと足を踏み入れた気がする――と、煌鬼は希閃と共に隙間なく赤絨毯が敷かれている廊下を歩みながら、ふっと思った。 元々、煌鬼はこの《娯支店区》に流れる雰囲気が苦手というわけではないのだ。もっとも、広い王宮の中には『あそこには野蛮な空気が漂っている』だとか『不潔極まりない』だとか何かと言いがかりをつけて文句を言う守子もいるのだが、煌鬼は一度もそんなことは感じたことなどなかった。 それというのも日々の公務に追われている間は決して感じることのない、守子達が醸し出す陽気な雰囲気が嫌いとは言いがたいからだ。 足を一歩踏み入れれば、酒を手にしながら熱気にまみれた男達が賑やかに笑い合っている。会話の内容は低俗なものばかりで、ほとんどが王宮での日々の公務に対する愚痴やら不満やらを吐き出してはいるが、澄ました顔を周りの人々と互いに腹を探り合い、時には見下しながら疑心暗鬼に満ちて険しい顔をしているのを見なければならないよりかは遥かにいい。 むろん、王宮にいる全ての守子がこの《娯支店区》に癒しを求めて来る訳ではないのは分かりきっている。 普段から人々を見下している者は、ほとんどここに来ることはないし、周りの者たちを見渡してみても全てがそうとは言い切れない。 少なくとも煌鬼が知っている中では【弱い立場の者を見下したりせず対等な態度で接している守子達】が、今ここにいて酒や食べ物を片手に陽気に公務仲間と語り合っているのが見える。 それを見て、安堵した。 隣を共に歩いている希閃が、身分が高くなっても癒しの場であるここへ自分を誘ってくれたことに対して感謝の念を抱いたからだ。 「久々に来たが、やはりここは良い所だ。王宮での息が詰まるような日々と違って……心が安らぐ。最近はよく天子様とも関わることが多いのだが……あの御方も色々と御苦労が絶えぬ故――無理している御姿を目にするだけでも辛いのだ。実は、そんな哀れな天子様にささやかな手土産でもと思い、ここに来たということもあって、煌鬼よ……気心知れた、お主を誘ったのだ」 珍しく、どこか切なげに希閃が心に溜め込んでいたであろう想いを煌鬼へと告げる。 どちらかといえば煌鬼と似ていて、他人に関してはあまり興味のない希閃が自ら溜め込んでいた想いを口にしたということもあり、煌鬼はすぐにあることを察した。 「希閃よ……まさか____天子様のことを思慕しているとでもいうのか?」 「煌鬼よ、確かに久々に話したとはいえ、お主は何を阿呆なことを言っているのだ?確かに、次期国王後継者であられる天子様に対して尊敬の念は抱いてはいる。だが、むろん……それ以上でもそれ以下でもない。そもそも天子様には、婚姻相手がおられるではないか。さあ、阿呆なことを申してないで彼方へ向かうぞ」 まるで童子の頃のように満面の笑みを浮かべた希閃が、その直後に目線を、ある店へと向ける。 店先に暖簾の如く様々な形をした肉がぶらさがっているところからして、容易にそこが《肉屋》だということを察せられた。 「いやぁ……いつもの熟練した親爺さんが病にかかっているっていうから味は大丈夫かと気兼ねしていたが、案外いけるじゃないか。あんちゃん、もしや親爺さんの弟子かなんかなのかい?」 ふと、側にいる半ば酔っぱらいかけた名すら知らない守子が、店主であろう青年へと話しかけている内容が聞こえてきたため、煌鬼は何ともなしにそちらへと目を向ける。 なるほど、確かに酔っぱらっている守子の男が言うように、繁盛している店の主人と名乗るには、まだまだ未熟そうな容貌をしている青年だ。何よりも不安と緊張が明らかに表情に出ていて、他の店の主人らと比べても貫禄がないと煌鬼には見受けられた。 「い、いらっしゃいませ……」 すると、 そんな煌鬼の視線に気付いたか否かは分からぬが、その青年が煌鬼と希閃の方へと遠慮がちに挨拶してくる。心なしか、目は伏せがちとなり小刻みに肩が震えているように見えて煌鬼は疑問に思う。 しかしながら、それから少ししてある事に気が付いた。 先程から酔っぱらい、酒のせいで半ば夢見心地のようになっている黒の帽子を被る守子の右手が青年の華奢な腰を捕らえ、何とも卑猥な手つきで戸惑う彼の下半身をやわやわとまさぐっているということに。 (なるほど――それ故に、この若き肉屋の主人はこんなにも怯えきっているのだな……) 「こ、こちらに……どうぞ……此処の席ならば二名でも大丈夫ですので……っ____」 ああ、可哀想に____。 下卑た笑みを浮かべる男に欲望をぶつけられ、さぞかし恐怖しているのだろうと、彼を哀れに思った煌鬼は咄嗟に若き主人を庇おうと身を踏み出しかけたのだが、寸でのところで希閃に腕を掴まれて阻まれてしまったため、もやもやした気分になりつつも仕方なしに席へと向かって歩いて行くのだった。 *

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