89 / 119

第89話

煌鬼も、思わず足を止めてしまった。 (ここは……大分前に来たことのある――鳥笛屋だ……あの事件以来、とんと見ていなかったというのに……よもや、再び店を出しているとは____) それは大分前に【娯支店区】を希閃と共に訪れた時(その時は傍らに王宮の崇貴殿から抜け出した天子様がいた)____、異国から、この月桜へ献上する意味で派遣された一人の《男童の花魁》が何者かの手によって命を奪われた事件のことであり、その光景をよりにもよって目の前で直接目撃してしまった煌鬼にとっては、すぐ側に店を出していた【鳥笛屋】を見るだけでも思い出してしまう。 【娯仕店区】から【娯支店区】へと僅かながらとはいえ、名を変えて新しく生まれ変わった場所だというのに、毒殺事件が起きたという事実だけはじっとりと纏わりついてきて簡単には心中から消えてくれそうもない。 「なるほど、鳥笛屋――なるものとは。実に、奇っ怪な店屋だ。おや、どうした……煌鬼よ。いささか、顔色が悪いように見えるぞ?この店屋を見るのは、止めにするか?」 毒殺事件が起きたあの時、希閃も側にいたというのに【鳥笛屋】が存在していたのを、すっかり忘れていたのか――そもそも、そこに店があることにすら気付いていなかったのか興味深そうに古ぼけた看板を見上げている。 「実は、一度だけこの店で購入したことがある……そうだ、確か___朱戒の父親が……あの日、ここに座っていたはずで……俺に鳥笛を売ってくれたのだが妙だな」 その看板を目にしているうちに【逆ノ目郭】から王宮へと献上されてきた、あの哀れな花魁の毒殺事件頭の中で思い出しつつ、その片隅では煙管を口に咥え、赤布で両目を覆った盲目であろう朱戒の父親(と名乗った)男の存在を思い出す。 そして隣にいる希閃へ、あの時のことを事細かに話した。むろん、朱戒の父親だと名乗った年老いた男の特徴的な容姿や服装のことも含めてだ。 しかしながら、希閃は此方と鳥笛の店屋の方を交互に何度か繰り返し視線を向けると、怪訝そうに小首を傾げる素振りをする。更に、肩をすくめると、呆れたといわんばかりに胡散臭げな表情を浮かべつつ疑わしげな目線を此方へと向ける。 「煌鬼よ……そのような者が、どこにいるというのだ?確かに、店の住人はあそこにしゃがみ込みつつ商いをしているように見えるが……お主が言っていた年老いた男の見た目とは随分と違っているではないか」 確かに、希閃の言う通りなのだ。 気だるげにしゃがみ込みながら、決して多くはない通行人たちの様子をぼんやりと眺めつつ「いらっしゃい……」と聞き慣れない客引きの言葉をやる気なさげに発する鳥笛屋の住人は明らかに老人ではなく若人の男だ。更に、決定的なのは両目に赤布など巻いてはいない。 つまり、全くの別人ということだ。 (何故に突如として……朱戒の父親はここを離れたというのか……例え深い事情があるとしても親ならば血を分けた子の側に少しでもいたいと思うのでは____) 煌鬼が、そのような疑問を抱いたのは【珀王】の存在をふっと脳裏に思い浮かべたからだ。 国王である彼と、下の立場にあった愛人との間に出来た子であるという事実を知った今にして思えば、一国の王である【珀王】にとって――世継候補にすらあがらぬ愛人との子である自身の存在など、忘れ去ってしまっていても何らおかしくなどない筈だ。しかも、既に母はこの世にはいない。たとえどこかで生きていたとしても、おそらくは二度とこの《月桜》の地を踏む気などないのだろうと思えた。顔すらろくに見た覚えのない母のことなど、今更気にかけても致し方ないとさえ思ってしまう。 「一体全体、如何したというのだ?顔が真っ青ではないか?まるで、血の気のない黒地蔵のようだぞ」 「____黒地蔵か。この世から離れ天へと旅立った者をそのように言うのは、あの村で暮らしていた頃を更に思い出してしまう。夕暮れ時に、きらきらと日を浴び黄金に輝き揺らぎ続ける、すすき野原で共に泥まみれになりながら全力で駆けていた頃を思い出してしまう。村では貧乏で食べる物にも苦労していたが……時々、あの頃と王宮へ仕えている今――どちらが幸せなのかを眠りにつけぬ夜に、ふと考えてしまうことがある。希閃よ、お前にはそういう時はないか?」 「いや、そのように考えたことは一度とてありはしない。煌鬼よ、貴様はそのようにどうにもならぬことを、あれこれと考える癖があるから、生きにくいのではないか?」 真剣に尋ねたつもりだったのだが、希閃にはあっけらかんと返されてしまったため煌鬼は何ともいえぬ気持ちを抱きながらも反論はせずに黙っていた。 すると____、 「さて、そろそろこのような場所で話すのは終いにしようではないか。あの御方が、私の帰りを待ちわびておるゆえ……どの鳥笛がよいか、意見を聞かせてはくれまいか?」 「あ、ああ……それも――そうだな」 希閃から、そう言われたため帰りを待ちわびている天子のためにも先程のことは頭からいったん忘れ去り、かつて村にいた頃のように希閃から腕を引っ張られつつ【鳥笛屋】へと入る。 そして、少しばかり時間をかけてから――《ソウシチョウ》と呼ばれている鳥笛をひとつ購入して店を後にするのだった。

ともだちにシェアしよう!