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第93話

* 【南天宮】から【北天宮】へと足を踏み入れた時、何やら異様なほど周囲が静けさに満ちていることに気が付いた。 一日の大半を訓練に明け暮れ、警護人らが集っている【西天宮】よりは活気に満ちてはいないとはいえ、さほど来訪することがない此方が違和感を抱くほど、不気味なくらいに奇妙な静けさが、この【北天宮】全体を支配している。 そのことに気付いた煌鬼は、胸騒ぎを覚え、そのまま足を踏み入れて前に進み続けるのを躊躇してしまう。 ____とはいえ、先刻訪れたばかりの【南天宮】のように入り口前に案内人が立っているわけではないため、やはり不安な気持ちを何とか押し込めて昼間でも薄暗い廊下を進んでいくしかないと考えを改める。 欠けがえのない親友の活気さを取り戻すためには、出来る限り早めに医官である慧蠡の助言を求めるほかないのだ____。 (このように些細なことで……足を止めて如何する____今は何としてでも慧蠡に会う必要があるのだ) と、早鐘のように鳴る心臓の鼓動を耳にしながら、薄暗い廊下の曲がり角まで足を進めた。 何だか、普段の廊下とは違う雰囲気に包まれているように思える。 人がいないのは、こんなにも気味悪いことなのか____と普段の煌鬼であれば考えすらしなかったであろう疑問を思い浮かべつつ、廊下を曲がろうと方向転換した直後、そこに人がいることに気付いた。 しか、そこにいるのは一人ではない。 二人いる____。 一人は、煌鬼に向かって背を向けているのが見える。もう一人は、薄暗さのため明確には見えないものの、どうやら床に横たわり倒れているようだ。 じとり、と纏わりつく不穏な空気____。 床に倒れていない方の人物が、まるでそこに煌鬼がいるのを分かっているかのように、ゆっくりと振り向いた。 「……っ____!?」 煌鬼は、その男の方を目にした途端に顔面蒼白となる。 かろうじて理性を保てているため、ひんやりとした固い床へ尻をつくことはない。 だが、体は心よりも正直で両膝が小刻みに震えてしまい、その場に立っているのがやっとだ。 空虚な瞳で此方を見つめている男は、久方ぶりに面と向かい合った、想い人である朱戒その人なのだから。 陽の光すら碌に届かない薄暗さとはいえ、ましてや久々に会ったとはいえ煌鬼にはその男が朱戒だと直感的に理解できた。 だが、ここにきてもよく分からないのは彼が今この場にいる理由だ。そもそも彼は、警護人であり医官らが集い公務している【北天宮】に訪ねてきている理由が思い当たらない。 何か大きな事件が起きたという報せすら聞いてはいない。 王宮内で重要な殿を守る警護人が出向くとなると、相当大きな事件が起きたということであり、それほどのものならば、たとえ非番であろうと王宮に住まう守子達にもただちに報せが届くはず____。 「し……朱戒よ。いったい、ここで何をして……っ____」 と、おそるおそる尋ねかけたが、ここにきて、ようやく朱戒の様子の異変に気がつく。 此方から話しかけてきたにも関わらず、まるで氷の如く冷たい目で見つめてくるばかりか、その片手には警槍を持っており、尚且つその尖った先端から液体が流れ落ちて床を汚して染みを作っている。 この時には徐々に目が慣れてきており、煌鬼にはその液体の正体が何なのか分かりきっていた。 意識せずとも、勝手に床へ倒れてしまっている人物の方へと目線が動いてしまう。 (血、だ……っ___それも朱戒のものではなく……慧蠡の……っ____) 「な……っ……何故だ?何故に……心優しきお前が、このようなおぞましきことをしたというのだ、朱戒……っ……!!」 あまりにも衝撃的な光景を目の当たりにしたせいで、口はからからに渇き、声を震わせながらも何とか愛おしい者へと尋ねる煌鬼だったが、それにすら目の前にいる人物は答えてはくれない。 まるで今の煌鬼は道端に転がっている小石にしか過ぎないようだ――と、自覚した途端に意図せず勝手に涙が溢れ出してくる。 少なくとも、朱戒の目には今の己の存在など、どうでも良いものとして写っているに違いないのだと半ば強引に思わされてしまう。 「____喧しいぞ、貴様はきゃんきゃんと吠える汚らわしい子犬の如き、忌まわしい存在だ。そもそも、貴様は何者だ?こそこそとした動作で此処にいるということは、さては――貴様、王宮への不法侵入者だな?貴様は喧しい子犬などではなく、それすらもましに思えるほど、醜く汚れた鼠ということか。薄汚い侵入者の末路は、ただひとつのみ――即刻、処分する」 ついには、腰を抜かして無様にも固い床へ尻もちをついてしまった煌鬼の眼前に突きつけられる警槍の鋭く尖った刃先____。 煌鬼は、ぎらりと光る銀の凶器を目の当たりにし、言葉では形容し難い凄まじい恐怖心を抱く。涙をこぼしたせいで充血した目をかっと見開きつつも、何とか気力を震わせ僅かしかない余力でずりずりと後退し始める。 (今の朱戒は明らかに正気を失っている……俺の存在を認識すらしていない――ましてや、此方の言い分すら聞こうともせず一方的に処分すると判断するなど、あり得ない――あり得る筈がない……っ…………俺の知っている朱戒なら――俺の愛してる朱戒ならそんな愚かな判断をする筈がない……今すぐに此処から逃げなくては____) 頭の中で、そうは思うものの恐怖で震える体は言うことを聞いてはくれない。 せいぜい、両腕の力を使い後退していくのが関の山だ。 そして、先刻から心の隅で恐れていたことが遂に起こってしまう。 どんっ____ 碌に見もせずに後退しているせいで、壁に追い込まれてしまったのだ。 正に、今の状況は袋の鼠ということ____。

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