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第94話
しかしながら、ふいに格子窓の外から何かが此方に向かって飛んできたことに気付いて、煌鬼は正気を失ってしまっている朱戒の異変を目の当たりにした先刻と同じくらい驚愕してしまう。
格子窓の外から放り投げられた石を目にした途端、咄嗟に目を瞑って本能的に顔を背けてしまったが、いつまでたっても、それが当たる気配がないためおそるおそる目を開く。
「____っ……こ……この無礼者。今まで受けてきた恩を無下にし、挙げ句の果てに王宮への謀反を企む――反逆者め……っ……!!」
外から石が飛んできた直後、正気を失っている朱戒は片手で頬を抑えながら、まるで氷のように冷たく怒気を込めた声色で姿なき者を口汚く罵った。
頬を抑えている方の指の隙間から、朱の液体が滴り床を汚していく。それが彼の血であることは薄暗い中でも明らかだ。
それゆえ今のように異様かつ危機的状況だとしても、何としてでも怪我をしてしまった朱戒を助けようと本能的に身を奮い立たせ愛する者へと近付こうとする煌鬼____。
だが、それは結果として叶わなかった。
背後から気配すらなく近寄ってきた何者かが、正気を失っている最中の朱戒の元へ近付こうとしていた煌鬼の片腕をぐいっと引き寄せ、素早くどこか別の所へと移動したかと思うと、有無を言わさずに置いてあった大きな壺の中へその身を隠したからだ。
「い……っ……今すぐに、ここから出さないか……っ___そうでなければ――あやつ、いいや朱戒が……っ____」
煌鬼は突如として現れ、自らを半ば強引にこの壺へと閉じ込めた者に対して、極度に困惑したせいで声を震わせつつも必死で訴えかける。そもそも、煌鬼は童子の頃に希閃によって(もちろん、ふざけていたのだが)狭い蔵へと閉じ込められたせいで閉所恐怖症気味の体質となってしまった。
それ故に、このまま長いことこの壺にいては動悸が激しくなり、下手をしたら呼吸が荒くなると本能的に察知していたのだ。
(そ、そうか……何者かは知らぬがいずれにせよ、この者は俺が閉所に対して異様なくらい恐怖心を抱くことを知らない筈――ならば____)
煌鬼は、途端に苦しがった――。
____とはいえ、それは此処へ連れてきた得たいの知れない人物を騙すためにうった芝居だったのだが。
このような芝居をうつのは――というより、他人を騙すのは初めてだったので内心は不安だったのだが、まんまと相手は引っかかってくれた。
すぐに真上から此方を覗き込んでくる慌てふためいた表情が、それを証明してくれている――と煌鬼は確信して、にやりと笑みを浮かべた。
煌鬼を此処へ連れてきただけでなく大壺の中へ閉じ込めた人物は、その身を他の者に見られないように顔を隠していて更に質素な衣に身を包んでいる。
しかしながら、ふいにため息をひとつつく。
そして観念したといわんばかりに、ゆっくりとした手つきで頭をすっぽりと覆い尽くす黒布を外すと力強い目付きで真上から動揺を隠せずに揺れる煌鬼の瞳を真っ直ぐに見据える。
「な……っ___何故に、貴方様が――このような愚かなことをなさっているのですか?誠に失礼を承知で申しますが、その理由をお聞かせくださいませ……無子様____」
「煌鬼よ……今や王宮は異様な場と化しているのだ。余がここにいて尚且つ、このように愚かなことをしている詳しい理由は……実は余自身にもよくは分からないのだ」
そこで区切り、ひと呼吸おくと今度は質素な衣の隙間に潜ませていた紙束を取り出してから、煌鬼へと差し出してきた。
「数日前、余の寝所の前に一通の文が置かれていた。それが、これなのだが一部分は解読できたが、肝心の部分が真っ白ゆえに完全には解読できていない。もしかすると、煌鬼ならば解読できるやもしれない」
無子のあまりにも真剣な眼差しを目の当たりにしたため、仕方なしに紙の束を受け取ると無言で目を通す。
幸いにも、辺りには無子以外に誰かがいる気配はない。
それでも、事は一刻を争うのだと尚も此方へと投げかけてくる無子の瞳がそれを物語っている。
数枚ある紙の束には、このように文字が記されている。
《今日、巳の刻……煌鬼____北天宮……》
《北天宮…… *∵. *,(解読不能)……い……王宮に蔓延す……再嵐……来たる》
《________》
二枚目の途中は、墨汁が滲んで文字が潰れてしまっているので読めない。そもそも、見当すらつかない。
紙の束は全部で三枚あるものの、全てが読めるという訳ではない。たとえ読めたとしても、ほとんどが意味不明かつ書き手の意図が汲み取れない。
更に言うならば、三枚目に至っては危険を侵してまで此処へ来た無子の申す通りで一面が真っ白であり、書き手が何を伝えようとしているのかさえ定かではないのだ。
(いや、待て……書き手はこの三枚目まで含めてわざわざ無子様の手に渡るようにした――ということは、だ……むしろ、この真っ白で何と書かれていないように見える三枚目こそが一番重要なのではないか……もしも、そうだとするならば____)
目を皿のようにしつつ謎多き紙束と格闘していると、ふいに頭の中に稲妻が走った時のような衝撃を受けた。
その直後、煌鬼はあるひとつの考えに思い至る。
(いつかの御前会議の時――あれは確か、そうだ――周防という男に言いがかりをつけられ慧蠡に救われた時だったか……)
(とにかく、だ……その時のように真上から熱でかざせば文字が浮かぶのではないか……あの時は文字ではなく指紋だったが、いずれにせよ試す価値はある___あの特殊な薬液は、慧蠡の公務の間にあるのを祈るしかないが……もしもあるならば幸いにもあの薬液を目の前で見ていた)
「無子様……早急に私を此処からお出しくださいませ。私は、これから……やらねばならないことがあります。貴方様と協力している者が誰なのかもあらかた見当がついています――先程、正気を失っている朱戒へと石を投げたのは允琥なのでしょう?」
「……っ____!?」
無子は僅かばかり動揺したが、ふと諦めたかのように笑みを浮かべる。
「煌鬼よ……余は完敗じゃ。お主はすべきこととやらをするとよい。だが、今の王宮内は……はっきり言うなれば普段とは別世界――。それゆえ決して油断せぬように……。余は、ここに一人残る」
そう言って力なく微笑みかけてきた無子は、注意深く辺りの様子を見回した後に煌鬼の体を壺から引っ張りあげると、そのまま冷たい床へと腰を下ろそうとする。
「いいえ……っ…………貴方様を此処に一人きりにするわけにはいきません。そのような愚かなことをすれば貴方様の御父上に顔向けできない。貴方様は、たとえ雨を降らすための生け贄といえども王族のうちの一人でおられる。王族の血を引いてるのはいえ、身分の低い私とは訳が違うのです」
「余は、もう生きてなど……いとうない……っ____この世は、まこと生きにくい。余は、疲れ果てたのじゃ。だからこそ、あの允琥とやらの男の申し出を引き受けたのじゃ。ここに残れば、余の望みが叶うことになる、と___そう思っていたのに……」
ふいに静寂に包まれていた周囲に、乾いた音がひとつ響いた。
無子が目を大きく見開きながら、唇を小刻みに震わせつつ、みるみるうちに赤くなった左頬を抑えている。
「無子様……本当ならば、このように乱暴なことはしたくはなかった。貴方様は、このままおめおめと命を手放していいような存在ではございません。というよりも、私がそのようなことになって欲しくないと心から願っているのです。そして、それは理不尽にもやってもいない罪で流刑に処された慧蠡とて同じことでございます。さあ、私と共に参りましょう」
戸惑いの色を浮かべる無子に手を差し述べると、遠慮がちながらその行為を受け入れてくれた彼へ安堵の念を抱きつつ、共につい最近まで慧蠡が通っていた公務の間へと慎重な足取りで進んでいくのだった。
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