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第95話

* 煌鬼は、つい最近まで慧蠡が公務していたはずの場に着くなり、絶句してしまう。 人が一人もいなく不気味なくらいの静寂に包まれているのは当然のことなのだが、むしろそのことよりも公務の間を埋め尽くす程に膨大な色とりどりの薬瓶の数々と、更に王宮に仕えるのならば頭に叩き込んでおくのが義務であろう無数の巻物が積まれている風景を目の当たりにして呆気にとられているのだ。 (それすなわち、この膨大な薬瓶をひとつひとつ確認し最終的には俺が目にした、あの薬瓶にたどり着かねばならないということ……それも出来る限り、時間をかけずにだ……更にいえば……あの時に残しておいた薬瓶がここにあるのかも定かではない____既に慧蠡が破棄していては意味すらないではないか…………) 煌鬼は、ここにきて後ろ向きになってしまっている自らの気を鎮めるために両目を瞑りながら一度深く息を吸い込む。 そして、普段から懐に忍ばせておいてある【星屑糖】という小さな砂糖菓子を手のひらに乗せ、それを三粒口の中へと放り込む。 悩みを抱えている時や、心にわだかまりがあり苛々している時――。更には気分が落ち込んでいる時は、いつもこうして自らの気持ちを落ち着かせてきた。 これは、かつて現王妃である尹儒様から教えてもらった行為だ、と――今や過ぎ去りし光景を瞼の裏に思い浮かべる。 今のように心身ともに容態が悪化せず、更には第二王子であった賢子様の専属守子として公務に追われていた日々の、とあるひとときのことだ。 『これは星屑糖といって、かつて私の母である魄元妃が、とある事情で王宮から処罰を受け、とある場所にて働いていた頃に出会った方から貰ったという砂糖菓子なのですよ』 かつて、異国に伝わるという聖母の像のように慈愛のある笑み浮かべながら、魄元妃から地位を受け継いだ現王妃である尹儒は煌鬼へと星屑糖とやらを纏めて手渡してくれたのだ。 そして、こうも言っていた____。 『私の母はいつも申しておりました……これを食べると辛い気持ちや心で渦を巻く黒い感情が吹き飛ぶ気がして心地よい、と――。煌鬼、あなたはいつも何かに憑かれているような……追い詰められた表情をしています。そんなあなたの表情は見とうない。ですから、これを受けとってくださいな?ああ、安心なさい。私には、もう必要ないのですので____』 意識せずとも沸いて出てくる不安な気持ちが、星屑糖をかりかりと噛み砕く音と共にすっと消えていく。 口の中が柔らかな甘味でいっぱいになり、それからすぐに煌鬼は心を綺麗さっぱりと入れ替えると薬瓶探しの作業に取りかかるのだった。 * それから、どのくらい経ったのだろうか。 決して狭いとは言い難い間を埋めつくすくらいに設置してある薬棚の奥深くに、それはひっそりと置かれている。 おそらく慎重な性格である(少なくとも自分よりは、だ)慧蠡のことゆえ、万が一にも周りの詮索好きな守子達や他の医官の目に留まらないように奥深くにあえて置いておいたのだろうと煌鬼は自然と察した。 (これだ……あとは、これを蝋燭の熱にかざせば____) と、ほっと安堵したところで致命的な自らの失態に気付いてしまう。 目当ての薬瓶に気をとられすぎ、更に時刻が昼間ということもあって懐に忍ばせておいた蝋燭に火をつける物を持ってきていないことに、ここきてようやく気がついたのだ。 液体が僅かに残っている薬瓶自体は、ある。 更に、蝋燭も懐に忍ばせてある。 だが、肝心の蝋燭に火をつける物がない。 薬瓶が未だに残っているか、そのことにばかりに気をとられ過ぎていた。 今更、後悔しても――もう遅い。 しかしながら、完全に打つ手がない訳ではないことに気がついた。 (まだ、大丈夫だ……ここから少し離れてはいるものの調理場には火打石があるはずだ……あまりしたくはないが、それをくすねてくれば蝋燭に火をつけるのは可能なはず……おかしくなった王宮の奴らに遭遇しなければ何とかここに戻ってこられるはず____) 煌鬼は一抹の不安を抱きながらも慧蠡の公務室から出るべく襖へと向かって慎重に歩いていく。 ____が、ここで予想外のことが起きる。 煌鬼が手をかける前に、襖が外側からゆっくりと開かれていく。 思わず、襖から後退りしてしまうのだった。 * 「おやおや、其の君は……かような場所で、何をしておろうか?」 「……あ、堊喰光子殿でございますか____?誠に無礼ながら、貴殿こそ……このような場所に、何の御用がおありなのでございましょう?」 慌てて声がした背後へと振り向くと、煌鬼の目に意外な光景が飛び込んでくる。 それは無論、普段であるならば訪れる必要すらない医官御用達の【南天宮】に【天子】の婚約者ともいえる堊喰光子がこの場にいることだ。 しかしながら、その他にも彼は両腕に見覚えのある人物を抱き抱えているということに気がつくと、そのあまりにも予想外過ぎる出来事を目の当たりにしたせいで言葉を失ってしまう。 それというのも、堊喰光子が両腕に抱えているのは、本来であるならば絶対に此処にいる筈がない、煌鬼から見て右の脇腹から流血してぐったりとしている允琥だからだ____。

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