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第107話

名さえ知らぬ罪人の男が現れてから、明らかに場の空気が一変してしまう。 周りに佇むことしかできない罪人らは可哀想なくらいに怯えきり、彼らよりも立場が優位である筈の監視守の二人の男に至っても、それは同じであることが理解できる。 今は真冬ではないにも関わらず、血の気が引いたのか真っ青になり、それどころか先程から罪人達に対して冷酷な言葉を吐くくらいに余裕があった唇でさえもぶるぶると震えてしまっていて、途徹もない恐怖を抱いていることが見てとれる。 しかし、その中で異彩を放つ者が一人いることに煌鬼は今更ながら気がついた。 (あの男____やはり、この一行の中で一際変わり者だ……このような異様な状況でも物怖じせず――あまつさえ余裕そうに鼻歌を口ずさんでいるとは____) 小舟で初めて出会い、自らの名さえ教えずに、何故だかは知らないが妙にそのことが引っかかっている男だ。 自然と、視線でその男の動向を伺ってしまう。 その男が今何を考え、何故に場違いにも関わらず鼻歌を口ずさんでいるのか、探りたいという気さえ起こってしまう。 だが、場違いともいえる鼻歌は最後まで終わることなく突如として破られ、辺りには再び静寂が訪れる。 すぐには、何が起きたのか理解できなかった。 この鉱山に一歩足を踏み入れてから長く険しい道のりを歩いてきていたため思いのほか時間が経っていて夕日が沈みかかり辺り一面が薄暗くなりかけていたせいだけではなく、あまりにも予想外なことが起きたからだ。 「のう____何なん、かえ?此ちが甲ヶ耳足首と知りながら歯向かう罪人とは……いったい何時から、おまんら罪人共は偉くなったというんかえ……っ……!?あい、わかった……そげに命がいらんというなら今この場で剪定しちゃるわ……どうせ、おまんら罪人共は粗末な命わ持っとるじゃけえ、本望よなぁ……」 甲ヶ耳足首を名乗る男は、まるで狐面の如く両の目をきっ、と吊り上げながら口元の端を醜く歪ませ恍惚の表情を浮かべながら名さえ名乗らなかった男の頭を足蹴にする。 男は頭を足蹴にされても、なお呻き声ひとつあげず理不尽な対応を受けたことに対して怒りの声ひとつすらあげないで口元を歪ませながら笑みを浮かべる。 視線でさえ、足蹴にしている男の方へ向けることはない。 真っ直ぐに前を向き、早乙目家の二人がいる方向を見据えているのだ。 「この……醜いだけで生きてる価値すらない、おぞましい罪人めが____っ……覚悟しいや……っ……」 甲ヶ耳家足首を名乗る男が、素早く慣れた手つきで懐から刀を取り出す。 そして、それを振り上げた直後のこと____。 いても立ってもいられなくなった煌鬼は、これまでにないくらいに凄まじい速さで二人の元へと駆け寄ると、刀を振り上げている最中である甲ヶ耳足首の男へ体当たりをする。 運よく刀は、周りにいる誰に当たることもなく地へと落ちた。 安堵したのとほぼ同時に、煌鬼は己の体に起きている異変に気付く。 (頬が痛い……いや、だが____刀は当たらなかったはず……なのに、何故に____) 「お……っ……おい、あんた……どうしたってんだよ――右の頬に傷が……」 ずらりと蟻の行列の如く並ぶ罪人のうち、いったい誰が放った言葉かまでは分からない。 その直後、咄嗟に右頬へ震える手を当てる。 ぬるりとした生暖かな感触が指に伝わってくる。 だが、確実に刀は頬に当たっていない筈だと思い直した煌鬼は少し考えた後に手がかりを探すべく辺りを見渡してみることにした。 すると、少し離れた所に何かが落ちていることに気付いた。 それは、一本の矢。 だが、罪人らや監視守の男達が放った物とは到底思えずに、ただ首を傾げて佇むしかできないのだった。

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