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第113話
一羽の白鷺だ。
このような場所で、よもや神聖なる存在として王宮内でも崇められている存在に遭遇するとは思ってもみなかった。
しかしながら、その白鷺が邪魔をしたのは煌鬼や他の罪人達――更には、どことなく怯えを見せている監視守の男達の足取りではない。
よりにもよって、この逆ノ口鉱山に足を踏み入れるなり徐々に様子がおかしくなっていき、ようやく落ち着きを取り戻したばかりの允琥の目の前で動きを止めて呆気にとられる彼の顔をじっと見つめて続けるのだ。
結果として、允琥は空腹や溜まりに溜まった疲労など気にとめることすらなく真顔となり、彼の関心は一羽の白鷺にばかり注がれる。
再び、正気を失ってしまうのではと器具したため慌てて駆け寄り、無我夢中で腕を掴み己の元へ引き戻そうとする煌鬼の心情などお構い無しに乱暴にそれを振り払った今の允琥は白鷺しか見えていない。
「あ……っ____あぶねえ……そっちは____」
ふと、一人の監視守の男の切羽詰まった警告など無視して、突如として身を翻して軽快な足取りで移動する白鷺に着いていった允琥。
そこは小高い崖となっていて、うっかり足を滑らせて落ちてしまえば命を奪われることはないだろうが、下手したら大怪我をして山道を歩くどころか、これから先日常生活を送ることすらままからないかもしれないと監視守の男がこっそりと耳打ちしてくれた。
しかし、時既に遅し____。
半狂乱になりながら、煌鬼が目に涙を浮かべ無我夢中で小高い崖の縁に駆け寄り真下を覗いてみた時には允琥の姿はその場から見えなくなってしまっていた。
幾ら、叫んでみたところで返事すらない。
「…………」
その後暫くは絶望にうちひしがれていた煌鬼だったが、ふいに直ぐ側から強い視線を感じたため、真っ赤に充血しきった目をそちらへと向ける。
両腕を組み、訝しげな表情を浮かべながら此方を見つめてくるのは、木舟の上にいた――あの男だ。
沢山いる罪人の内の一人でしかないにも関わらず、本能的に煌鬼が気にかかって仕方がない存在なのだが、ここにきて『気になって仕方がない』という煌鬼の心情が限界に達する。
(この男は突如として允琥がこの場から姿を消した理由を……知っているのでは____)
もちろん、確信がある訳ではない。
だが、煌鬼の勘がそう告げている。
「お前……っ____允琥がどこに行って――いや、どんな輩が、どこに拐っていったか知っているな!?」
形振り構ってなどいられずに、煌鬼はずかずかと男の前まで行くと、未だかつてあらわにしたことがないような凄まじい怒りを堪えきれず鬼の形相で問いかける。
「おれにだって、確信があるわけじゃねえさ。だが、心当たりくらいはあるんよなぁ。恐らく、そこにいる監視守の奴らと罪人のうち数人くれえは知ってる輩はいるだろうな。何せ、この逆ノ口鉱山を支配する領地には古臭え土着信仰が根付いてるからな――まったく、反吐が出る」
____と、男がどことなくあっけらかんとして答える様を目の当たりにして、煌鬼の怒りは更に増してゆくばかりだ。かつて、少しでもこの男が良識的だと思ったのが悔やまれるくらいに。
「土着信仰…………だって?」
聞き慣れない、その言葉を耳にして煌鬼は面食らった。王宮に来る前に暮らしていた場所でも、ましてや王宮に来てから尚更のこと【土着信仰】などという言葉に接する機会など無かった故に幾らその意味を頭の中で考えてみても理解できる筈もない。
「さっきのは白鷺の御目通りっちゅうんや。その罪人が言う通り昔からあるんやが、この逆ノ口鉱山を支配する土地に纏わりつく【蛙拉子天狗】への信仰っちゅうもんがな。そして、代々【蛙拉子天狗】を奉り続ける役目を担うのが甲ヶ耳頭主の役目なんやき。つい数日前に先代頭主が亡くなったばかりで、頭主である巽の坊様は新たなる伴侶を求めとるやき……おめえが言う、あの允琥という名の罪人は恐らく____」
ふいに二人の監視守のうち比較的良心的な考え方を持つ男の方が、共に苦を味わってきた允琥を突如として失ってしまった煌鬼に同情じみた感情を抱いたためか、遠慮がちな態度だったが煌鬼には馴染みのない逆ノ口鉱山の土地事情を教えてくれる。
「あんな、そこの罪人。水差して悪いがな、白鷺の御目通りは甲ヶ耳家の新たな頭主となられた元坊様が伴侶《主頭女》を決めた直 後に現れるというから、まあそういうことやんな。おめえは、あの罪人のことはすっかり忘れるしか道はないということやき、それを覚えといてや。まあ、こちとら罪人が一人減ってら食いぶちも減りよるし有り難いことっちゅうもんやんな」
しかし、もう一人の監視守の男は煌鬼の傷心などお構い無しだといわんばかりに容赦なく言い放つ。
一瞬、頭の中が真っ白になってしまう。
むろん、それは心の底から湧き出てくる憤りのせいであり、下手したら良識的ではない監視守の男に掴み寄り殴りかかる一歩出前だった。
しかしながら、煌鬼が判断を誤らず踏みとどまれたのは皮肉にも木舟で出会った男のお陰なのが何とも皮肉な話であり、むしろ頬を殴られたのは煌鬼の方だ。
「目が覚めたか…………この逆ノ口鉱山に来るまでの長い長い道のりを共にした相棒と呼べる存在が急に奪われた怒りで周りに八つ当たりする気持ちはは分かなくもねえさ。だが、今――てめえがすることは、そんな下らないことじゃねえよな。この反吐が出るくれえの忌々しい山道を上りきり、甲ヶ耳の家の頭主から取り戻すこと……違うか?」
「あ……っ____ああ、それくらい分かってる。無事に允琥をそいつらから取り戻すのが、俺が此処にいる意味で、それから____」
ふと、うっかり自分たちが王宮から来たという事情を話してしまいそうになり、慌てて黙りこんでしまう。
そして、ここにきてようやく自らの過ちに気付く。
「先程の俺の態度は、間違っていた。大人げなかった。怒りを堪えきれず、元凶ではない相手に矛先を向けてしうというのは分別のつかない童子のすることだというのに。ところで、今更だが……その――名前は何というのか聞いてもよいだろうか?」
「ああ、紅緒だ。おれの名は、紅緒さ――そういうお前さんの名前は?」
「…………」
ここで、偽りの名を告げることは容易な筈____。
しかし、きちんと自分の名前を告げることにした。
不思議なことに、そうしなければならないような気がしたからだ。
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