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第117話

______ ______ それから数日後、王宮で公務していた時とは、また違った息苦しい生活にほとほと嫌気が差していた煌鬼は、広大過ぎる屋敷の縁側に腰を掛けながら開け放たれた障子の外に広がる幻想的な景色を眺めつつ、思わず溜め息を漏らしてしまう。 夜空にぽっかりと浮かぶ満月が、感嘆の息を漏らしてしまうほどに幻想的で美しいからというだけではない。 あまりにも、精神的に疲労しきっているせいだ。 (この屋敷に住まう者達とは、どうにも相性が合わない――誰も彼もが話しかけても此方に対して腫れ物扱いだ____) 屋敷の中で唯一対等に話せるのが、あの雅という少年だけであり、よりによって何と皮肉なものか――と心の中で毒づいてみたものの、やはりどんなに苦手な存在とはいえども話し相手すらいないというのは流石に孤独を感じてしまう。 かつて王宮内に傍若無人で苦手な赤守子や黒守子達は星の数ほどいたが、この屋敷の者達のように此方と目すら合わさないように立ち振舞う――あるいは、目を合わせてはいるが直ぐ様立ち去ろうとするといった失礼な態度を取る守子達は存在していなかった。 煌々と照る満月をぼんやりと見つめている内に、ふと煌鬼の心の中に、ある人物が思い浮かぶ。 しかしながら、その人物は最愛なる朱戒のものではない。 (あの男____) (あの甲ヶ耳頭主――巽という男ですら、このような息苦しい思いを強いられているとでも____) 『これに着替え、寝所で待っていろ……間違っても、寝るでないぞ?宵化粧は、か――いや、そこにいる雅にでも教わるがいい。ここの屋敷の女官は……宵化粧すらろくに出来ぬのでな____』 巽によって命じられた雅の不貞腐れた顔を思い出すと、つい口角が緩んでしまう。 此方に対して、あまりにも分かり易すぎる態度を露にしてきたため、思わず笑みを浮かべてしまったのだ。 それとほぼ同時に、はっと我にかえる。 (いけない…………この逆ノ口鉱山を支配する甲ヶ耳一族の連中に対して好意や同情といった肯定的な感情を抱くことなど――するべきではない) (無事に允琥を救い出し、この屋敷から脱出して王宮があんな風になってしまった手掛かりを得るためだけに……俺はここにいるのだから____) 「何を、呆けた顔をしていなさるのです?」 背後から突如として小声で話しかけられ、慌てて振り返ろうと身を捩りかけるが、予想外のことが起こったせいで完全に振り返ることが出来ないまま屋敷の人間から《おつとめ》と称される宵寝の儀のために敷かれた布団の上に強引に組み敷かれてしまい自由を奪われてしまう。 てっきり、頭に思い浮かべていた【甲ヶ耳頭主】の巽が起こした行為だとばかり思っていたため、少しばかり冷静になった後に不躾な相手の顔を目の当たりにしようとして息を呑んだ。 相手の顔は、黒布で覆われてよく分からない。 しかし、その声には微かにだが聞き覚えがあるということを思い出す。 巽が自身の前に現れた時、隣に付き従っていた青年の声だと碌に面識がないものの直感的に悟ったのだ。 「主頭女としての役目を、しかと果たして頂けなければ、此方とて困るのでございます……それが、いくら余所者の罪人とはいえども____」 耳元で、巽の付き人の耳障りな囁き声が聞こえてきたため、両腕を強い力で抑えつけられているものの咄嗟に膝で男の体を蹴り上げるという些細な拒絶反応を起こした煌鬼はすぐにそれを後悔することになってしまう。 まさか、相手が【主頭女】という立場にある此方に対して両腕で首を絞め上げるという暴力行為を行うとは予想すらしなかったのだ。 せいぜい顔を平手打ちされたり、最悪の場合でも殴られる程度かと思いきや、穏やかな好青年だと印象を与える見た目をしていた彼が、ここまで危険極まりない人物だとは予測できなかった。 そもそも、今このような異常ともいえる事態に陥ってしまっている状況も全く理解できないため苦痛で顔を歪めることしかできないのが腹立たしい。 (そもそも……何故に、この男が今此処にいるんだ……) このままだと本当に意識を手放してしまいかねない――と意識が朦朧としかけた時____、 (ああ、朱戒____) 自然と溢れ出る涙で濡れたせいで視界が歪み、半開きとなった目の奥に浮かぶ最愛の男の名を心の中で呟いた。 その間にも【宵寝】のために丁寧に着付けされていたはずの皺ひとつなかった高級な着物が、付き人の男の手によってどんどんと脱がされていく。 とうとう、生まれたてのまっさらな姿になったと煌鬼が半ば強引に気付かされた直後のことだ。 まさに今、男の手が冷気にさらされた煌鬼の下半身に触れて、半勃ちとなったそれを握った後のこと____。 「貴様が何者かは知りたくもないし至極どうでもよいことだが、今すぐに……その場から離れよ。さすれば、命だけは勘弁してやらないこともない」 付き人の男から突如として首を絞められ、更には卑猥なことまでされそうになった事実を受け入れきれず極度の混乱状態に陥ったせいで頭が真っ白になったこともあり、涙で歪みきった煌鬼には、すぐには、その声の主を明確に把握することは難しかった。 だが、その声の主である巽が来てくれたおかげで付き人の男は忌々しそうに舌打ちすると、すぐに体から離れて夜の闇へと去って行ったのだった。 「…………」 二人きりになった直後に訪れる、幻想的な月夜に相応しい静寂____。 すぐに、声をかけられたりはしない。 しかしながら、王宮内で過ごしていた時でさえ、これ程までに布団代わりにかけられた一枚の薄い布が暖かいと感じたことは今までに一度もない――。 煌鬼は半開きとなった戸から差し込む月明かりに照らされ、欠ける箇所など微塵もなく美しい満月を眺めながら、今度は安堵と嬉しさの混じる温かみを感じる涙を一筋溢すのだった。 ______ ______

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