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第119話

       ※  ※  ※ (せっかく老婆から教わった話を実行へ移す日がやってきたというのに____) (俺はいったい何をやっているんだ__こんなだから允琥にも呆れられるんだ) 今朝の出来事を思い出すと、ため息をもらさずにはいられない。 むろん煌鬼とて、老婆から与えられた絶好の機会を無下にするつもりなどなかった。 数日後に行われる代々から続く催事の準備にてんてこ舞いな使用人の目を欺き、計画を実行するには実に恰好の日だったが、あろうことか計画は失敗に終わってしまった。 あれだけ、甲ヶ耳一族に対して同情心は抱かないと固く決意し、いざ老婆から教わった方法で【迷信】に囚われた一族の長を葬ろうとしたにも関わらず、結果としてそれは成されなかった。         ※  ※  ※  あの日、昼間は分厚い灰色の雲に覆われて、どんよりとした空模様だったが巽の寝所を来訪した夜半には満月が浮かんでいた。 既に一人きりとなり、開け放たれた障子の隙間から吹き付ける夜風を浴び、煌鬼は半分に欠けた月を見上げながら、まだ半分くらい酒が入っている盃を何度か軽く揺らしつつ緊張をやわらげるために、ちびちびと口に運んでいた。 『今宵の月におわす兎は何匹か?』    襖が開く音が聞こえて覚悟を決めて勇気を振り絞り煌鬼が遠慮がちに問いかけると、いつのまにやら背後に忍び寄っていた甲ヶ耳頭主は、不快感を露わにすることすらせず、ましてや悩む素振りすらも見せずに直後にこう答える。 『今宵の月に浮かぶは、ひと耳の兎___』 この答えを耳にした時、煌鬼は戸惑ってしまい目を丸くしながら、ひたすら巽の顔を見つめることしかできなかった。 【ひと耳】____。 生まれ故郷にて、それなりの時間を王宮と比べて遥かに自然と共に暮らしてきた経験のある煌鬼ですら、初めて耳にする動物の数え方だったからだ。 『ひと耳とは………どう捉えるべきか教えてくれませんか?』 『何も難しいことなどない。貴様の身は、いずれ自由になり巣立つということ――それのみ覚えておくがいい。ただし、貴様がこの鳥籠から巣立ち自由を求めるというのならば、ある条件を呑んでもらわねばならぬ』 煌鬼は巽の答えを聞き安堵する反面、途徹もない不安を抱いてしまう。もしも、その条件の内容に人質にとられてしまっている《允琥》の名前が出てきたらと思うと居ても立ってもいられないと感じたせいだ。 しかし、ここで老婆から言われた言葉が繰り返し頭をよぎる。 『願いを叶えるには大切な何かを犠牲にしなきゃならないこともある___そういう、悍ましい世界なんじゃよ………この一族の屋敷という広いように見えて狭き鳥籠の世界はの…………』 かつて、この一族にかかる呪いとも呼ぶべき慣習の犠牲となった老婆の親友の身に起きた恐るべき【末路】の光景を思い浮かべ、凄まじい恐怖心に耐えつつも煌鬼は巽の目を真っ直ぐに見つめ声を震わせながら問いかける。 「ある条件とは、どのようなものですか?」 「貴様がその懐に毒をしまっているのは分かりきっている。故に、すぐにでも悍ましき罪しか背負えないこの身と魂を解放してくれ。役立たずの使用人の二の舞いにはさせぬ。案ずるな。このような汚らわしい生まれの身――今更、逃げも隠れもしない」 あまりにも強い意志を持ち此方を真っ直ぐに見つめてくる巽を目の当たりにしたため、不甲斐ないことに一瞬躊躇してしまった。 その隙に、巽は無理やり煌鬼を床に押し倒すと【毒】を奪い取る。白い粉状のそれは王宮で何度か目にしたことのある液体のものではない。 ここにきて凄まじい恐怖心と後悔に囚われた煌鬼が、がむしゃらに取り戻そうと奮起するも、巽は少量の水と共に【毒】を飲み干した。 老婆からは、その【毒】は効き目が速いと聞いていた。 しかし、それから何分待ってみても、巽は倒れもしないし体に異変は見当たらない。強いていうならば、少しばかり顔を顰めたくらいだ。 「これが、あの老婆なりの復讐というわけか。見事に、してやられた。若き主頭女よ、あのみすぼらしい老婆は、簡単にはこの呪われた身からこの俺を解放するつもりなどないらしい…………ただ、ひたすらに死をもたらすつもりなど毛頭なく、じわりじわりと苦しめるつもりとは何とも残忍な女だ。貴様に渡したこれは、毒などではない。単なる、良薬に過ぎない。幼少の頃から、ひたすら死を願い続ける俺に対する当てつけに過ぎない」 巽が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて視線を室内ではなく中庭の方へと彷徨わせた直後、室外から何者かの鋭い視線が此方へ向けられていることに気付く。 中庭の方へ背を向けている巽が明確に気付いてたかは定かではない。 しかしながら、腰くらいまで伸びたぼさぼさの白髪、更に薄汚い寝間着を纏い、直立不動のまま朧気に虚空を見上げ、半開きとなった口からぶつぶつと繰り返し何事かを呟いている。 幻想的な月明かりの下で、ただひたすらに巽に対して憎悪の視線を送り続ける老婆の姿を目の当たりにしてしまい【人が人を恨み続ける】という真の恐怖を改めて自覚した煌鬼は寒気とは別の震えあがる感覚に襲われてしまい、それ以上は何も言えずに現実逃避から眠りの世界へ誘われてしまうのだった。 巽は、何も言わずに布団に横たわる煌鬼の姿を一瞥してから、今度は中庭に居続ける老婆の姿を真っ直ぐに見据えると声に出さずに何事かを老婆へと伝える。 少し離れた場所に横たわり、尚且つ巽が声を直接出している訳ではないので、唇の動きで彼が老婆へと何を伝えようとしているのか推測するしかない状況だ。 『すまない____』 老婆が、どのように推測したかは分かりようがない。 こればかりは、かつて家族同然ともいえる親友との苛酷な別れを経験した【彼女】にしか、分からない感情だ。 だが、煌鬼には巽が老婆へとそう伝えたようにしか思えなかった。         ※  ※  ※

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