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第70話
「ええ、シャンプーのCMが無事に終わったので、縛りが解けたの。ほらCMを大々的に流している間はそこのを使わなくてはならないでしょう。お化粧品ならともかくシャンプーには香りがあるでしょ」
詩織莉さんは女王様のような威厳に満ちた優美な笑みを浮かべている。
オレが髪の毛の香りに言及したのも勿論ワザとで「貴女のことには非常に関心を持っています」アピールだ。
何かのマンガに「妻が美容院に行って髪を大幅に切ったのに気付かない夫に愛想を尽かした」とか有ったが、その逆バージョンをするのがホストの役割だと思っている。ちなみに髪型どころかファンデーションを替えただけで分かるようになるのもプロ意識からだ。お客さんの些細な変化に敏感に対応すると、物凄く喜ばれることは知っていた。
詩織莉さんは、日本を代表する女優を5人集めて大々的に広告を打った化粧品会社のシャンプーとかトリートメントのCMに出ていた。
だからその期間中はそういう契約になっていたのだろう。
口紅とかファンデーションとかの化粧品のCMだったら、女優さん持ち込みの化粧品も一部は使わせてくれると聞いたことが有ったが、シャンプーなどは香りがするのでそういう契約なのだろう。
「国産のツバ○よりも、ゴージャスな薔薇の香りの方がお似合いですよ」
詩織莉さんも嬉しそうに微笑んでいる。それにオレに心の傷を暴露して一晩経ったからか、艶やかな顔に今までにない晴れやかさを感じる。
「ロマネコンティの1990年物をお願いするわ。
今夜はリョウと二人きりで話したいので、ヘルプは結構よ。静かに呑みたいので……」
ロマネは当然単価も高いし、90年は当たり年なので市場に出回ると直ぐに売り切れになると聞いている。
ただ、ウチの店では日本一とも言われる輸入代理店に頼んでいるせいもあって在庫は豊富に押さえてある。
「洋幸の幸福を祈って乾杯しましょ?」
バカラのワイングラスと共に運ばれて来たロマネとか果物の盛り合わせがテーブルに並べられると、詩織莉さんは割と胸の開いた真紅のドレスにルビーのネックレスを煌めかせている。
「乾杯!ユキの幸せを祈って!」
オレがそう言うと詩織莉さんは心の底から嬉しそうな笑みを見せてくれた。紅いルージュと真っ白い歯の――多分歯科医の手が加わっているのだろう――対照がとても綺麗だった。
「洋幸にはリョウが付いているから、そんなに心配はしていないわ。
どう?一晩とはいえ、一緒に暮らしてみて?」
ユキに含むところが有ったとはいえ、そのマイナスの気持ちが払拭されて「可愛い弟」を案じる姉の気持ちだけになったのだろう。
「料理が上手いですね。何だか実家で食べた味を思い出しました。
ほら、恋人とかには『胃袋を掴め』とか言うでしょう。
いや、詩織莉さんレベルになれば、胃袋なんてどうでも良くなるとは思いますが。
ユキはまだそのレベルにまで行っていないので、物凄く美味しい食事を作ってくれましたよ」
ロマネのグラスを凝ったネイルアートの爪と当時に煌めかせながら詩織莉さんは悪戯っぽく笑った。
「有難う。でもね、ユキのお母様には私も料理を習ったもの。だから同じような『お袋の味』も作れるわよ。
私の母は料理が全然出来ないし、お菓子作りもダメなの。だから、バレンタインディの時なんて小母様に習いに行ったもの……。
深窓のご令嬢がそのまま奥さんになったって感じの人なので料理は人に教えることが出来るレベルだもの」
人に教えるというのは料理研究家とかそういうレベルなのだろう。その教えを受けたユキが料理も得意なのは当たり前かもしれない。そして、屋敷の中からはそんなに外に出ていないユキはお母さんからたくさん教わっているのだろう。
そういう極上の料理を毎日食べられるのかと思うとそれだけで嬉しい。
いや、ユキがオレの帰りをマンションで待っていてくれるというのも物凄く心が弾むが。
あのマンションはナンバー1として後輩に憧れられるようにという、いわば演出も兼ねている。だから高級感は有っても生活感はあまりない。ユキが住んでくれればきっとそういう無機質な感じが薄まってくれるに違いない。
「あと、例の小切手は無事に現金化出来ました。恭子さんの銀行にオレ名義の口座を開いてそっちに移しておきました。後は警察にユキが『絶縁届』を出せばオレは『そっち』系の人間だとは見做されなくなりますよね?」
ユキは間違いなく警察の組織犯罪対策部だかにリストアップされている。昔はマル暴とか言った部署だが名前が変わったらしい。
ただ取り締まっているモノは一緒だし、そのリストに載った人間が「特別な関係」を持った相手も漏れなくチェックされるとか。だから下手をすればオレまでそういう部署にマークされる。
まあ、警察の御厄介にならずに普通に暮らしていれば大丈夫だと聞いた覚えも有るが、最近は893絡みでない「独立系」特殊詐欺グループなどもターゲットにされているらしい。アキラが先程言っていた元ジャニー○は競争も激しいホストの世界で弾かれてしまって、その後は「演技力」を買われてそっちの道に入ってしまったと聞いている。そして、今は刑務所だかの中に居るとか。
ダイアモンドを――見間違いでなければホンモノだ――埋め込んだ赤い爪が優雅に動いて水でも飲むような感じでロマネを流し込んだ詩織莉さんはおもむろに口を開いた。
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