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オムライス
同意も無く押し付けられた、欲望。
首筋と鎖骨に残る、鬱血痕。
ジー、ジー、ジー、
陽が傾いたせいか。風がでてきたせいか。……室内が、僅かに涼しくなったような気がする。
ゆらゆらと、歪んで見える天井。
水の底に沈められて、そこから水面を眺めているかのよう。
……いっそ、クラゲになりたい。
ふかふかと浮かび上がれれば、あの水面に近づけるのに……
「大丈夫か……?」
膝を立て、開いた足元から聞こえる穏やかな声。
やっと機嫌が直ったんだろう。
ふぅ……と息を吐ききれば、空っぽになった胸の奥へと、新しい空気が吸い込まれる。
「──うん」
ドロドロと溢れるソコを、今井くんが丁寧にティッシュで拭き取ってくれる。
「痛く……ねぇか?」
広い肩幅。太い腕。厚い胸板。僕とは比べ物にならない程鍛え上げられた身体。その身体を曝したまま、今井が不安そうに僕の顔を覗き込む。
「……」
──なんで……
何で急に、優しくなんか……
酷く穏やかで、蜂蜜のように甘く柔らかな瞳。
煩い程だった蝉の音が、やけに遠くで聞こえた。
「……美味いな」
薄暗くなった部屋。
軽くシャワーを浴びた後、今井に頼まれて作った夕飯。
覗いた冷蔵庫には、食材になりそうなものが殆ど無くて。冷凍庫に唯一あったミックスベジタブルと、炊飯器に残っていた、保温されていないご飯をケチャップで炒め、薄焼き卵で包んだだけの、シンプルなオムライス。
「………え」
驚いて、相向かいに座る今井を真っ直ぐ見つめる。
そんな事を言われたのは、初めてで。……何だか少し、心の中が温かくなったような、おかしな気分。
「美味いよ……マジで」
「……」
何が、今井くんをそうさせたんだろう。よく解らない、けど……
突然涙ぐみ、片手で目元を覆い隠す。
「………さっきは、悪かったな。……つい、乱暴にしちまってよ」
「……」
「次からは、優しくするから……」
「……」
……次って……
そっか。
恋人同士だから……あるんだ、次が……
「……」
スプーンを持ったまま、俯く。
汗ばむ首元。
片手で拭おうとして、止める。
「……」
「……だから、また、作ってくれよ。
俺の為に……オムライス」
ごみ箱の蓋に片手を付いたまま、顔を伏せ背中を丸める。
「……」
どうしよう……樹さん……
僕はこのまま、今井くんとこの関係を続けていって、いいのかな……
『……美味いよ』
僕に、あんな酷い事を……したのに。
今井くんの言葉が。涙が。僕の心をぐちゃぐちゃに引っ掻き回して、どんどん思考を麻痺させていく。
いつまでも鳴らない通知音。
出口のない夜。
湿気を含んだ空気は、まるで水中にいるみたいで。
何をしても。何処にいても。
容赦なく僕を襲い……溺れさせようとした。
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