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…忘れてくれ
「──最低だ」
嘆きにも似た、吐き捨てる声。
「俺は、相手が大空だと思ったから……許そうとしたんだ。
……なのに、あんな──何処の馬の骨か解んねぇ野郎の為に、一度はお前を諦めて、別れた訳じゃねぇ………」
僕から顔を背け、大きな溜め息をつく。喉を絞める手がゆっくりと緩んだ後、鋭い瞳が、再び僕を捕らえ……
「──!」
弾かれたように僕を掬い上げ、ギュッと強く、しっかりと抱き締める。
「………実雨、」
耳元で囁かれる声。さっきまでとは違って、少しだけ弱々しい。
甘え縋るような、細い息遣い。
僕の背中に回した今井くんの手が、身体が、吐息が……僅かに震えていた。
「……」
それを受け止めようと両手を持ち上げ、おずおずと今井くんの背中に触れようとした、その時──
「今日俺が言った事は、全部………忘れてくれ」
「──!」
苦しそうな声を吐いた後、突然僕の両肩を掴んで引き剥がし、顔を近付けて覗き込む。その瞳は濡れて光り、切羽詰まった唇が、僕に迫り……
「……」
柔らかな感触。
だけど、ただ押し当てられただけのそれは、何処か冷めていて……
悲しい程に、切なくて──
唇が離された瞬間。
振り払うように突き飛ばされ、背中を後ろの壁に強く打つ。その間に今井くんは、雨の降りしきる夜の街へと消えていき……
「……」
ズルズルと、壁に背を当てたまま膝から崩れ落ち、お尻をペタンとつく。
整わない、上擦った息。痺れにも似た、震える指先。感触の残る唇。
そっと喉元に手をやれば、途端に抑えていた感情が込み上げ、涙となって次々と溢れる。
「……」
……ごめん、ね……
僕のせいで、また、傷付けちゃって……
首を絞められた事よりも、冷たいキスをされた事よりも……
今井くんを傷付け、苦しめてしまった事の方が……辛い。
今井くんとは、色々あって──痛い事も、苦しい事も、辛い事もあったけど……
ひとりぼっちになった僕に、優しく声を掛けてくれて、手を差し伸べてくれて。
あんなに一途に、僕を想ってくれていたのに……
……どうして僕は、今井くんじゃ……駄目なんだろう……
どう考えたって……今井くんを好きになった方が、いいに決まってるのに……
「……」
折り曲げた人差し指で濡れた下瞼を拭った後、立てた膝を胸に引き寄せ、身体を小さく丸める。
………サァー
空から降り注ぐ、無情の雨。
それは次第に強くなり、啜り泣く声や僕の存在を、都合良く隠す。
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