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身代わり
ドアノブに掛かった、貸切中の札。
思ったより広めの露天風呂は、自然に囲まれていて、ごつごつした岩肌と木々の一部がライトアップされている。
薄雲が掛かっているのか。残念ながら星は見えず。半月より少し太った月が、笠を被ってぼんやりとしていた。
水面から立ち上がる湯気。
冷たい外気に触れ、常に熱が奪われているせいか。それとも、身体が冷えていたせいか。最初は熱いと思っていた湯が、暫くすると温く感じた。
……慣れてしまえば、その途端に物足りなくなってしまう。
同じだ、僕と。
「……」
……樹さん……
まだあの人の事が……忘れられないのかな。
本当は僕の事、そんなに好きじゃなかったのかな……
心の中にある不安を言葉にしてみれば、途端に現実味を帯びてくる。
初めて会った時、好きだった彼に似てるって言ってた。
あの時は……確かに僕も、樹さんを大空と重ねて見ていて……お互い様だねって笑い合った。
……でも、今は……
「……」
不安で胸が苦しくなる。
文化祭の時の告白は、確かに僕に向けられたものだった。
……けど、もしかしたら本当は、僕の中にある彼の面影を求めていて──
「………」
『身代わり』──的確な単語が頭の中にに浮かべば、妙に納得した気持ちと、諦めと、いたたまれない気持ちが心の中を支配する。
もし、本当にそうだとしたら……僕は、どうしたらいいんだろう……
「……実雨」
隣にいる樹さんが距離を詰め、熱情を帯びた瞳を僕に向ける。
合わせる視線。
濁り湯の中で絡められる、指。
「……」
もし、展望台であの話を聞かなかったら。
踏み込んで、聞いたりしなかったら。
……道中、ちゃんと起きてさえいれば……
「……不安?」
「え……」
そう囁いた後、樹さんが優しく微笑む。
繋いだ手をそのままに、ライトアップされた方へと顔を向ける。
「いい所だね。……実雨と一緒に来られて、良かった」
「……」
「安心して。実雨の嫌がる様な事は、しないから」
繋いだ手を、きゅっと握られる。
「……」
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