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…捨てる?
「……あんな母でも、僕は好きだったのに──」
僕は一体、何の為に生まれてきたんだろう。
本当に、望まれていたのかな……
僕が生まれた時、嬉しかったのかな……父も、母も。
「……僕が好きになった人は、みんな僕から離れて……何処か遠くへ行っちゃう……」
父も、母も、大空も……
……もしかしたら、樹さんも。
学生時代に好きだった彼が、目の前に現れたら……
きっと、僕を捨てて──
「実雨」
静かに。でも、しなやかで芯のある真っ直ぐな声。
それが、僕の後ろ向きな思考を止める。
「………僕は、離れたりしないよ」
びくんっ、と小さく肩が跳ね、その声に導かれるように、ゆっくりと顔を上げる。
「決して離さない。傍にいる。……だから、安心して」
真っ直ぐ向けられる、双眸。
穏やかで、優しい眼差し。
温かな……僕の居場所。
大きく見開いた僕の瞳に、それら全てが映り込む。
ずっと欲しいと思っていたその言葉が、僕の心にストンと落ち……キュッと、胸の奥が締め付けられる。
「……」
──だけどもう、それだけじゃ……物足りないよ……
*
夕食が片付けられ、敷かれた二組の布団。
浴衣姿でその上に座るけれど、その隙間がやけに広くて……
「……明日、何処か行きたい所はある?」
隣の布団に座る樹さんが、ガイドブックを片手に尋ねる。
昨日の夜、ロープウェイに乗りたいと提案した事もあって、臆して中々口を開けない。
「……」
「……実雨」
俯いたままでいれば、少し寂しそうな声がした。
文化祭で会って以降、電話やメールでのやり取りばかりで、会うのは久しぶりなのに。
ましてや、初めての旅行で……泊まり、なのに……
「樹さん……」
「……ん?」
「僕の事、好き……?」
声が、震える。
馬鹿な質問だなって、自分でも思う。
けど……その言葉だけでも、ハッキリとしたものが欲しい。
「………うん、好きだよ」
「……」
「実雨……?」
浮かない僕の顔を、樹さんが覗き込む。
正座を崩して座ったまま、膝の上にある両手をきゅっと握る。
「………それじゃ……もし……樹さんがずっと好きだった、学生時代の彼が……突然目の前に現れたら……?」
「……」
「僕の事、捨てる……?」
もやもやした気持ちの塊が、次から次へと口から零れていく。
……怖い。
もし、そんなのお互い様で、答えなんて解りきってるよねって……言われたりしたら……
──スッ
目の前に、浴衣の布地が現れる。
……気付けば、心地良い温もりに、身体を包まれていて……
「………ごめん」
「……」
「トラウマの話をした事で、かえって実雨を不安にさせてしまったんだね……」
鼻孔を擽る、樹さんの匂い。
……僕の、好きな匂い。
「僕が選んだのは、実雨だよ。
もし、彼が現れても……実雨を捨てたりしない。
──ずっと、実雨の傍にいるよ」
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