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嫌いな季節、あなたとの出逢い
春。桜舞う季節が訪れた。散りゆく桜を見て、流星は自然と深い溜息をつく。
日本人は桜が好きな人が多いと聞くが、流星は違った。春は嫌な記憶を思い出すので、桜も自然と苦手になったのだ。
病名を診断された後も、薬を飲み忘れたりしたことが原因かもしれないが、決まって春先になると再発し、入退院することが何度かあった。それを繰り返しながらも、投薬治療を続けることで、なんとかようやく症状は収まり、回復へと向かってきたところで、社会復帰できる運びとなった。
そして二十七歳となった流星は、この春、ようやく新社会人として障害者枠で一般企業に入社することができた。今日はその記念すべき初日だ。
「よし、行かないと」
恐らく普通の人の倍以上気合いを入れて、両頬を軽く叩いてネクタイを締め直すと、着慣れないスーツで会社に向かって歩き出す。
会社は県の中心街にあるアプリ製作会社で、最近事業拡大のため採用枠を増やし、障害者採用にも力を入れ始めたところだ。近年、障害者雇用促進法により障害者雇用について力を入れ始めた企業は多いが、未だに取り入れているのは大企業がほとんどで、中小企業はおそらくこれからといったところだ。
そして、流星が就職を決めたこの株式会社Before down(夜明け前の意味。略してBD)もまた、わりと大きな会社の方の部類に入る。
緊張で手に汗を掻き、がちがちに強張った体を無理やり前へ進めながら、会社の受付へ向かった。そして、受付の綺麗な女性に裏返った声で挨拶する。
「おはようございます。和歌田流星と言います。本日からお世話になるので、よろしくお願い致します」
きちんと挨拶できたかどうか不安だったが、深々と頭を下げると、頭上からころころと涼やかな笑い声が返ってきた。
「うふふ。ご丁寧にどうも。新入社員の方かしら?こちらこそよろしくお願いしますね」
「はい。それで、すみませんが企画部の方に行くようにと伺っているのですが、場所を教えていただきたくて」
「企画部は三階よ。頑張ってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
その女性に頭を下げながら、さっと名札を確認する。木下というらしかった。とても優しそうな女性で安心しつつ、頭の中に名前と顔をインプットするように努める。
そして三階に向かう道すがら、案内板を見つけたので改めて場所を確認した。残念ながら広い会社なので、フロアがいくつもあって一度には覚えられない。そのうち慣れるしかなさそうだと案内板から目を離し、エレベーターのボタンを押す。
エレベーターを待っている間、緊張が昇りつめていき、限界値に達しそうなところにきたのか、次第に吐き気が込み上げてきた。
「まずい……」
思わず口を押さえてしゃがみ込もうとしたところで、ちょうどエレベーターの扉が開いた。
「……で、原野君はそう思うわけね。でもさ、次の企画はきっと……ん?」
「おい、君、大丈夫か」
何人かの人の声が頭上から降って来て、そのうちの一人が駆け寄ってくる気配があった。優しく背中を摩られ、口を押さえたまま顔を上げると、間近に柔和な顔立ちをした男性がいて、流星の顔を覗き込んできていた。
「君、見ない顔だな。今日から入る新入社員か」
「はい……」
「顔色が悪いな。歩けるか?休憩室に行こうか」
それに対して頷き返すと、男性は流星の背中を支えてくれながら一緒に立ち上がった。
「悪いけど、上には事情を伝えておいて」
「了解。じゃあ、また後で」
手を振って立ち去る男性たちの間から、くすくす笑う声が聞こえた気がした。そして、それと同時に耳に飛び込んでくる。
「今日から入る新入社員って、あれだろ?精神障害者の。今度はいつまで持つかな」
「初日からあの調子じゃ、先が怪しいな。うちはほとんど身体障害者の方しか受け入れてないからな。前と同じように、どうせすぐに辞めるんじゃね?」
実際に聞こえた言葉なのか、それとも幻聴なのか、両方が混ざった音なのかは分からない。確かめることも恐ろしくて、男性社員たちを振り返ることもできずに、連れられるまま歩いて行った。
おかしい。薬はちゃんと飲んだのに、まだこうなのか。次の診察の時に、ちゃんと言わないと。
そう思っていると、傍にいた男性が声を掛けてきた。
「俺、原野恭平っていうんだけど、君は?ああ、気持ち悪いのに話しかけてごめん。吐き気が収まってからでいいよ」
「は、い……」
実際は吐き気はだいぶん良くなっていたのだが、先ほど聞こえた幻聴か何なのか分からない声のせいで気持ちが沈んでしまっていた。原野というこの人にそれを伝え、確認した方がすっきりするかもしれないと思い、訊いてみることにする。
「あの、俺、じゃなくて私は和歌田流星って言うんですが……。それで、ちょっとお聞きしたいことが」
「うん?」
「この会社、精神障害者がほとんどいないっていうのは本当ですか?それで、前の人はすぐに辞めたって……」
尋ねると、原野は驚いた顔をした。
「えっ、よく知ってるね。誰かから聞いたの?」
反応から見るに、先ほどのは幻聴ではなかったのかもしれない。しかし、そうでなかったからといって、素直に喜べない。
「えっと、偶然、聞こえちゃって」
そう言うと、原野は顔を顰めた。
「せっかく今日から入って来てくれた君に聞かせる話じゃないな。俺から謝るよ。ごめんね。何か悪口言ってたら、次から俺が叱っておくから遠慮なく言ってね」
「あ、ありがとうございます」
頭を下げて礼を言いつつも、こんないい人に迷惑は掛けらないから自分で解決しようと思った。
「休憩室に着いたけど、どうする?休んでいく?でも、顔色はだいぶん良くなったみたいだね」
優しくされたせいか、原野からどうしてか離れがたくて、首を振って言った。
「せっかく連れてきていただいて申し訳ないんですが、もう平気みたいです。あの、途中までご一緒させてもらってもいいですか」
すると、原野は目を線のように細めて微笑んだ。それを見ながら、確かな温もりが心に灯り、始まりそうな予感を覚えながらも、必死で抑え込んでいた。
自分には恋をする資格はないんだから、と。
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