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悪夢の再来、溢れた想い

 入社して一週間ほどが経った時だった。少しずつ仕事にも慣れ始め、いつものように誰よりも早く出勤してフロアの掃除をしていた。  フロア清掃については誰に言われたわけではないが、午後を少し過ぎた辺りでいつも帰宅するので、毎日仕事終わりに行われるという清掃を自分だけしていないのが心苦しかったためにするようになった。 「これが最後かな」  何の気なしに、原野のデスクの掃除は最後に取りかかった。極力私物に触れないように注意しながら、デスク周りの埃を箒で集め、デスクの上を布巾でぴかぴかに磨いていく。 「こんなところかな」  満足がいくまでに仕上げると、デスクを見下ろしながら原野のことを思い浮かべた。初対面で好印象を受けてから、ますます気持ちは募ってしまい、自分の想いは疑いようがないほどになっている。  決して自分の想いは気付かれてはならない。だが、それでも、せめてこうして、いない間に原野の私物を眺めるのだけは許してほしい。  そうやってどれほどの間原野のデスクを見つめていたか分からないが、気が付くと他の社員が話しながらフロアに近づいてきていた。 「ああ、新入社員の和歌田?なんか精神障害者なんだってね。まあ別に差別とかじゃねえけど、暗いっていうかさ。真面目なんだけど取っつきにくいしさ」 「分かる。部長や原野だって、あれ、絶対腫れ物を扱うような感じで接してるよな。まあしょうがないけど。前うちにいた精神障害者のやつなんて、再発したか何か知らないけど、やたら休んでばっかで、来たら来たで情緒不安定で扱いに困っていたもんな。結局辞めていったけど」 「そうそう、だから優しく扱わないといけないって気を遣うっていうかさ。たぶん和歌田もあとひと月もしたら辞めるんじゃね?賭けてもいい」 「違いねえ」  げらげら笑いながらこちらに向かってくる社員の言葉を聞いて、流星はショックを受けながらも、それらが実際に言われている悪口なのか、幻聴なのか、聞き分けることができずにいた。  次第に自分一人だけの世界に突き落とされるような感覚に陥り、津波のように押し寄せる自分を責める声の嵐に発狂し、がむしゃらに走りながらフロアを飛び出した。  途中、何人かの社員が驚いたような顔をしていた気がしたが、もはや目に入らない。流星の中では幻と現実が混じり合い、判別がつかなくなっていた。 「助けて、助けて、誰か、怖い、怖い……っ」  お前、頭いかれてるんじゃねえの。死ねばいいのに。 「嫌だ、死にたくない。死にたくない」  一人で気が狂ったように泣きわめきながら、聞こえてくる声の数々と会話する。打ち消そうと抗っても、しつこくつきまとい、流星を貶めようとしてきて、まるで生きたまま地獄そのものにいるような感覚だ。  ほうら、このまま落ちてしまえよ。  声に促されるまま、辺りを見回してみると、いつの間にか屋上の鉄柵の前にいた。死にたくないと思う反面、いっそこのまま死んだら楽になれるのだろうかという恐ろしい思いに支配されてきて。 「和歌田君!」  はっと声に我に返ると、原野が必死な形相で駆けつけてきて、流星の腕を掴み、そのまま引き寄せた。  自然と鼓動が高鳴りつつも、その気持ちを消してしまおうと抗い、拒絶の言葉を口にする。 「嫌だ、離してくだ……っ」 「離さない。離したら、和歌田君はそこから落ちようとするだろ」  そう強く言われてしまうと、途端に抗う気をなくした。不思議なことに、原野に抱き締められていると、いつの間にか恐ろしい悪夢が遠のいていった。  すると今度は、どんどんこの状況が恥ずかしく、耐えられなくなってきて。 「もう平気なので、離してください」 「本当か?」 「本当、です」  本音ではずっとこうしてほしいとさえ思っているのを偽り、そっと胸を押すとゆっくり離された。事情を説明するべきだと思ったが、なかなかうまく言葉を紡げない。 「あの、原野さん、俺……」 「だいたい経緯は聞いているよ。和歌田君は偶然、彼らの悪口を聞いてしまったんだよね。こってり絞っておいたから安心して」 「……っ、う……」  優しい声で言われて、堪えきれなくなった涙が頬を伝う。  どうしてこの人はこんなに優しいんだろう。同情でも、何でもいい。まだたった一週間かそこらだけれど、最初からずっと救われてきた。 「和歌田君」  心配そうな声が降ってきて、肩に手が置かれた瞬間、ついに想いが溢れ出した。 「き、です。原野さん、すき……」 「えっ、今、なんて」  慌てたような顔をしている原野が涙で曇ってよく見えない。この顔を心に刻もうと思いながら、泣き笑いを浮かべて続けた。 「こたえ、ないでください。俺、わすれ、ますから」 「どうして……」  それに対して首を振ると、涙を拭って頭を下げた。そしてそのまま、振り返りもせずに屋上を後にする。人生最後の恋の終わりを、しっかりと胸に仕舞い込みながら。

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