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第3話 ボクシング

 次の日、僕はまた隣町の商店街に居た。ここに来れば、彼に会えるかもしれないと思ったから。ちなみに、昨晩は「ナギサワ」を妄想のネタにし、淫夢を見たのは言うまでもない。  僕の様子があまりにも変なのか――終始にやけていたと思う――、見たこともない派手な格好をしているからか、夕食の食材を買いに来たおばちゃま達の視線を一身に集めていた。  八百屋、魚屋、肉屋、弁当屋、ミセス向けの服屋、趣のある喫茶店などが建ち並ぶ、昨日は寂れていると思ったが、よく見ればそれなりに活気のある商店街だ。色々な店から特価品やタイムセールを知らせる呼び込みの声が飛び交っている。その声の隙間を縫って、パシッパシッという乾いた音が何処からか聞こえてきた。  その音がする方向へ何となく近づいていくと、ジャージやTシャツ、短パン姿の男たちの姿が、建物のウィンドウ越しに見えた。看板には「竹田ボクシングジム」と書かれている。  男たちは鏡に向かって拳を振るっていたり、サンドバッグを殴ったり、リングの上でトレーナーらしき人のミットに拳を打ち込んだりしていた。ボクシングをしている人を実際に見たのは初めてだ。  しかし、目の前に布越しでも分かる引き締まった肉体を披露されると、ついつい食い入るように見てしまう。と同時に、あのパンチを真正面から食らったらどうなるんだろうと考えるだけで心が躍った。 「ボクシング興味あるのか」  突然背後から声を掛けられて、びくっと肩を震わせ振り向くと、そこには予想外の人物が立っていた。黒髪オールバック、学ラン、鋭い目付きの男。 「ナ、ナギサワ……くん!」 「……お前に名乗った記憶ねえけど……ま、いいや」  と、彼は突然俺の腕を掴むと、ボクシングジムの引き戸を勢いよく開いて引っ張り込んだ。 「オヤジ、見学希望っぽい奴がうろついてたぞ」  ナギサワは、リングの上で選手に指導していたトレーナーらしき人物に向かって言った。トレーナーは手を止めて訝しげにこちらを振り向く。 「……名前は?」 「岡本忠清(おかもとただきよ)、です」  何で丁寧に答えてしまっているんだろう。僕は別にここに入りたいわけじゃないのに。元々の真面目な性格が不意に出てきてしまった。 「お前、本当にボクシングやってみたいのか?」 「こいつ頭真っ白にして喧嘩売って歩いてるのに弱っちいんだ。鍛えてやってくれよ」  「いや、やりたくないです」という僕の台詞を遮って、ナギサワはそう言ってのけた。弱いままでいいんですよ、僕は殴られたいだけなんだから。 「……仕方ねえ。才能あるか見てやる。ナギサワ、教えてやってくれ」 「おう」  と、再びナギサワは僕の腕を引っ張って奥の部屋に入っていく。 「ちょ、ちょっと待って! 僕は別に――」  ロッカーの並ぶ更衣室に入ると、ナギサワは「薙沢」とネームプレートのついたロッカーからTシャツやらジャージやらを引っ張り出した。彼は、薙沢、なのか。 「俺の服だからちょっとでけえと思うけど、これに着替えろ」  ボクシングをやる気はないって言いたかったけれど、彼の真剣な眼差しを真っ直ぐに受けてしまい、ついそれを受け取ってしまった。 「……どうした? 着替えろよ」  「君にガン見されながら着替えるの?」と思ったけれど、薙沢の命令口調がマゾヒズムをガンガン刺激するので、言われるがまま服を脱ぎパンツ一丁になる。ドキドキしながらTシャツを手に取った時だ。動きを止めるように強い力で肩を掴まれて、びくっと身体が反応する。 「何だ、この傷だらけの身体……」 「え……」  そう言われて身体を見てみると、あちこちに傷ができていた。大小の切り傷や殴られたり蹴られたりしてできた青痣、打ち身の痕。気付かないうちに結構できていたのだなあと思う。 「大したことないよ。高校に入学してから喧嘩売られてできた傷なんだ。こんな頭してるから、生意気だって上級生から目付けられてリンチなんてよくあった」  僕にしたら、本当に大したことではなかったから、笑って答えたのだが、薙沢は眉根を寄せて少し怒っているような悲しそうな表情になっていた。 「……大変だったんだな」  そう言うと、ポンポンと軽く僕の頭を撫でた。大きくてごつごつした手――どくんどくん、と脈が速くなった。 「お前を強くしてやる。そいつらを見返せるくらいに」  いや、だから僕は弱いままで――と言いたかったけれど、僕の歪んだ性欲も届かないほどに純粋な彼の心を目の前にしては、否定する言葉も掻き消されてしまう。  僕は「うん」と、ただ小さく頷いた。 「じゃあまず服着ろ」  半裸状態になっていることに気付き、慌ててTシャツとジャージを着る。その間、彼は僕の身体から視線を逸らしていた。あまりに惨めに見えたのだろうか。 「準備できました!」 「よし、行くぞ」  彼の後について更衣室を出る。ほんのり着ている服から香るのは、彼の家の柔軟剤と染みついた彼の匂いだ。そう思うと、ちょっと興奮する。 「オヤジ、ちょっと軽く俺から教えとくけどいいか?」 「ああ、頼む」  リングの上で今度は別の選手の指導をしているトレーナーに言う。トレーナーはそれほどがっちりしていないし、身長も低めで年齢は五十歳前後のように見えた。あまり強そうには見えない。 「ああ見えて元東洋フェザー級王者なんだ。凄い人だぜ」  僕の考えていたことが読めたのだろうか、そう思うほど適切な言葉だった。壁を見ると、チャンピオンベルトを掲げた選手が写っている白黒写真が飾られていた。今のトレーナーの若い頃の写真だろう。 「まずは簡単にサンドバッグ殴ってみろよ。フォームとかは気にしなくていい」  言われるままサンドバッグの前に立ち、構える。そして、割と力を入れて拳を振るった。他の人たちの小気味良い音とは違って、サンドバッグが完全に音を吸収してしまったように音がしなかった。と、同時に拳に鈍い痛みが走る。 「腰落とせ。こうだ」  薙沢は僕の脚を動かし、腰に手を添えた。唐突なボディタッチに驚いて心臓が跳ね上がる。 「もう一回やってみろ。今度は全力で」  高鳴りを沈めるように大きく深呼吸して向き直る。拳を強く握りしめてサンドバックに打ち込んだ。一瞬さっきの鈍痛を求めている自分を内側に感じながら。  パシッと、軽く音がした。拳にはさっきの鈍痛以上の痛みが襲いかかっていたが。痛いということが快感の自分にとっては、大したことではないけれど。 「いい感じだったろ」 「うん、感触がさっきよりもめり込む感じしたよ」  僕の言葉を聞くと、彼は全力でサンドバッグを殴った。ゴッという重い音、サンドバッグは強烈な一撃を食らって大きくブランコのように揺れた。 「す、すごい……」  全身に鳥肌が立った。彼にあの力で殴られたら、骨が砕けるんじゃないだろうか。顎の骨を粉砕され、肋骨全部が折れ肉に突き刺さる、そんな状態を思い浮かべる。リンチされた時の何十倍も苦しいんじゃないだろうか。考えるだけで、顔が強張りながら笑顔を作る。  彼はどこか嬉しそうに、ふっと少しだけ笑った。笑ったのを見たのは初めてだったからか、不意のことにどきりとする。真顔でも怒っているように見える彼だ。とても珍しい表情に思えた。 「俺は始めて一年くらいでこれくらいになったんだ。今日から俺と同じメニューをやるぞ。いいな」 「は、はいっ」  反射的に奴隷根性が表に出て頷いてしまったが、もしボクシングを続けたら、薙沢のあの拳を受ける日が来るかもしれない。人を殴って倒すことには興味がないけれど、人に合法的に殴られるスポーツと考えたら興味が湧いた。さっきのサンドバッグもそうだし、ドM向きの練習が待っている気がする。それに何より、僕の白馬の王子様と一緒に居られるパラダイスだ。 「キヨ、走りにいくぞ」  キヨって、僕のことだろうなあ。忠清、でキヨか。くすぐったいけれど、なんだか親しくなれた気がして嬉しい。 「はい!」  ジムから飛び出して行く彼の背中を追って走った。例え、薙沢がこれから十キロ走るとしても、僕は追いかけ続けようとその時は思った。彼が餌を付けた釣竿を手に走っているかのように、僕はまっしぐらにただ彼を追いかけようと思った。  しかし本当にそこから十キロ走るとは思わなかった。ジムに着くなり地べたに座り込む。吐くかと思うくらいで、ぜえぜえと肩で息をして大量の汗が流れた。 「オヤジ、こいつ結構根性あるぜ。途中で弱音吐くかと思ったけど、最後まで文句も言わず俺についてきた」  「ほら」と薙沢がタオルと水を差し出した。受け取りながら、それは何度も「ついてきてるか」と振り返り汗を流す薙沢をご褒美にして、さらにこの苦しみはプレイの一環だと思い込むことで乗り越えたに過ぎない。  顔をタオルで拭き、水をたらふく飲む。甦った気分だ。と、トレーナーが僕の顔をまじまじと見て感心するように「ほう」と言う。 「薙沢のペースについていけるんなら、なかなか見込みがありそうだな」 「だろ? ジムに入れてもすぐ辞めたりはしねえよ」  ジムに入る、言われて思い出したのはボクシングをやりたいかどうかじゃなくて、月謝を払う金が我が家には無いという深刻な経済状況だった。 「あの、うちの家母さん一人しか居なくて、その……お金が払えないのですが……」  トレーナーの表情が曇る。当然だろう、ジムの経営もボランティアでやっているわけではないのだから。 「清掃やらせたらどうですか」  側でシャドーボクシングをしていた大柄の男が声を掛ける。この人はヘビー級とかだろうか。かなりの筋肉量に垂涎……ではなく目を奪われた。 「前田さんの代わり見つかってなくて、ここ三日会長がやってるんですよね?」 「しかし練習後で清掃は……ちょっとなあ」  渋い顔をするトレーナ―――ではなく会長だったらしい――に、僕はこれしかないと思い立ち上がる。 「清掃作業頑張ります! 雑用でもなんでも!」  もしこの機会を逃したら学校も地区も違う薙沢には会えなくなる。薙沢に凌辱されたいという僕の夢が一瞬で砕け散ることになる。それだけは嫌だ。 「本人もこう言ってますし、薙沢以外十代の子居ないから、若い子入ってくれると僕らも活気が出ていいですよ」 「相変わらず甘いな、東代。そういうところが、お前のボクシングによく出てるぞ」  苦言を受けて苦笑する東代というらしい男性に、会長は「まあそうだな」と言って僕の肩にぽんと手を乗せると、 「じゃあ練習後の清掃作業が月謝の代わりだ。手を抜くなよ」  と笑い、東代さんにリングに上がるように言う。ミット打ちというのをするらしい。 「良かったな。準兄はうちで一番の実力者だ。オヤジもあの人には反対できねえ」  準兄とかキヨとか、会長をオヤジとか、薙沢はあだ名で呼ぶのが好きなのだろう。しかし金という最難関の問題が丸く収まって本当に良かった。 「準兄はこの間の試合で八戦八勝六KO、半年後に全日本王者に挑むことが決まったんだ」  ミット打ちを始めた二人に視線を移すと、一発受ける度に会長は吹っ飛びそうになるのを何とか堪えているようだった。その強烈な一発を目にして身体が疼くのが分かる。 「俺も謹慎が解けたらプロテスト受けることになってる」 「プロテスト……って、薙沢くんはプロになるの?」 「薙沢でいい。まあそうだな。なれない気はしないし」  既に十分な実力を持っていると素人目でも分かるから、その「謹慎」とやらがなければ直ぐにでもプロになれるのだろう。一体何をして謹慎させられているのか僕には分からないけれど。 「よし、次の練習だ」  さっき十キロのランニングを終えたばかりなのにもう次なんてスパルタ過ぎる。 「ほら、地べたに這いつくばってないで立てよ」  あっ、今の結構良い……勝手に顔が緩みそうになるのを唇を噛み締めて耐えて、立ち上がる。本人の意識しないところで繰り出されるサディスティックな台詞というのは、芳しい香りが鼻腔をくすぐるような、いや僕の芯を指先で撫でるような浮き足立たせる快楽を植え付けていくのだ。  何か道具を取りに行った薙沢を忠犬よろしく尻尾を振って待てをしていると、戻ってきた彼の手に紐状のものが握られていて、一瞬鞭かと錯覚したがどうやらそれは、小さい頃に良く見た道具だった。 「これを俺は三十分、キヨはとりあえず一時間な」  そう言って黒色の縄跳びを一つ渡す。テレビでボクサーがリズム感を鍛えるために縄跳びをやっているのを見たことがあった。 「俺はシャドー三十分やって、準兄と軽くスパーリングすることになってっから、縄跳び終わったらオヤジにシャドー教えてもらえよ」 「うん、分かった」  黙って一時間の縄跳び。運動音痴の僕には難しく何度も引っ掛かってすっ転んだ。その姿を「何やってんだよ」と呆れた表情で見下ろされて、とてもクるものがあったが、気持ちを抑えて真剣に取り組んだ。  先に縄跳びを終えた薙沢が僕に背を向けるような位置で、鏡の前でフォームを確かめるようにシャドーボクシングを始める。縄跳びに集中しないとと思いながらも、どうしても目で追ってしまう。  汗でTシャツが肌に張り付いて、背中の筋肉の隆起とその躍動が見てとれた。繰り出される拳と空を切る音が僕の肌を粟立たせる。鏡と彼との間に身を置くことができたらどれだけ幸せだろうかと想像するだけで疼いて仕方ない。  ふとリングの方を見るとミット打ちを終えて東代さんと会長が休憩をしながら何やら話していた。と、完全に余所見をしてしまい、豪快に引っ掛けて尻餅をつく。縄跳びの最中に余計なことを考えてはいけなかった。  一時間の縄跳びを終えて会長に声を掛けてシャドーボクシングの注意点を聞き、癖の修正をまずは僕の右ストレートに絞って行う。会長に見てもらいながら、鏡に向かって拳を繰り出した。 「相手を想像しろ。その拳で殴る相手だ」  会長の言葉に戸惑う。僕は誰かを倒したくて拳を振るう訳じゃない。溜め息をついて目の前に立っているのは自分だった。そうか、自分がどう殴られたいかを考えたら上手くいくかもしれない。  思いっきり顔に、何発もストレートを繰り出す。もし僕が、薙沢だったら。鏡に映る僕の顔が歪んでいくのを想像して、打ち震える。 「そうだ、筋がいいぞ。もう少し腰を落とせ。無闇やたらに打つんじゃない。一発に集中しろ」 「はい!」  シャドーをしている間は想像力豊かなおかげで本当に楽しくて、ストレート以外にも本当はボディーブローとかやってみたいなと思うほどだった。  十分ほどやって会長にストレートの打ち方の見本を見せてもらい、そのイメージで自分でやってみる。腕の伸び、腰の入れ方など細かい指導を受ける。  と、カーンという甲高い音が鳴りその方を向くと、リングに薙沢と東代さんの姿があった。グローブと顔を保護するためのものだろう装備をつけている。 「せっかくだ。うちのエースと期待のルーキーの練習を見ておけ。どこが良いか悪いかよく分かるだろう」  薙沢と東代さんの拳に集中して妄想の世界に入りそうなのを、ボクシングとしてちゃんと見なければとぐっと堪えた。  薙沢のファイトスタイルは、リズムを取りながら足を使い、相手の攻撃を素早く避け、様々な角度から攻撃するもののようだった。東代さんは足を動かすというよりは床に両足をついてガードを固め一瞬の隙をついて強烈なカウンターを繰り出すもの。同じ階級の選手ではないはずだが、どうしてこの二人で試合形式の練習をさせているのだろう。 「薙沢の良いところは勘の鋭さだ。東代の方がリーチあるのに、カウンターを上手くかわしているだろう。ただその東代のカウンターを出す隙を与えてしまう無駄打ちの多さが欠点だがな」  言われてみれば薙沢の方が手数が多く動くからか、汗の量がすごい。東代さんは目立った消耗もなく、薙沢をコーナーに追い込んでいた。  まるで丸太で殴られたかのように薙沢の身体が吹っ飛んだのは、瞬きをした一瞬のうちだった。これで終わりなのかと思ったが、ロープに掴まりながら立ち上がる彼の姿を見て総毛立つ。  笑っていたのだ。痛みに悦んでいるわけではない。闘争心を剥き出しにして、相手を如何にしても屈服させてやるという気概が、その鋭い眼光から伝わってくる。  ああ、僕にこの眼を向けてくれたら、とそう思わずにはいられない。  しかし、東代さんがこの機を逃すような真似はしなかった。更にラッシュを繰り出され防戦一方になる薙沢は、どうにか前に出ることで東代さんの体勢を崩しコーナーから逃れる。ちょうどゴングが鳴り、一セットを終えた。 「体格差が、有りすぎるのでは……?」  荒い呼吸を繰り返し滝のような汗を流す薙沢にジム生の一人がタオルを渡す。どう考えても二人は二階級以上の差があるように思え、薙沢が不利なのは明白だった。 「東代の次の対戦相手は足を使って翻弄するファイトスタイルだ。東代と階級が近くて試合を控えていないちょうどいいのが、薙沢しかいなくてな」  現日本王者とのタイトル戦を想定した練習なのか。薙沢はボクシング歴一年でその役割を果たせる実力を備えているということでもある。 「東代さんのファイトスタイルが負けているとは思いませんでした。コーナーに上手く相手を追い込んで動きを封じていましたけど」 「それで、薙沢はマットに沈んだか? それどころか目ぎらつかせて睨んでやがるじゃねえか。これじゃ駄目だ。詰めが甘いんだよ、あいつは」  次こそはぶっ倒してやると怒りと決意に満ちた瞳を真っ直ぐに薙沢は東代さんに向けて立ち上がった。東代さんは苦笑しながら、タオルをセコンドに渡して立ち上がり、薙沢に向き直る。そして、ゴングが鳴った。  その瞬間、薙沢からノーガードでラッシュを仕掛けたことで激しい打ち合いが始まった。薙沢はすれすれのところで何度も東代さんの重いカウンターの一発を避ける。東代さんに、疲れが出始めたのが見ていて分かった。薙沢は東代さんのガードが下がるその一瞬の隙を突くつもりなのだ。 「何やってんだ、薙沢! それじゃ練習にならねえだ――」  会長がリングに走り寄った次の瞬間、薙沢の身体が吹っ飛びマットの上に横たわった。激しくゴングが鳴り、東代さんの勝利を告げる。一瞬の隙ができたとそう思ったのだろう、薙沢が繰り出した右ストレートは、東代さんの頭部の防具をわずかに掠っただけだった。恐らく東代さんは薙沢の攻撃を予測していた――いや、攻撃するよう誘導したのかもしれない――、カウンターを的確に左頭部に当て、その重い拳に薙沢は倒れたのだ。 「な、薙沢……!」  状況をようやく理解してリングの側に駆け寄る。上体を起こした彼を東代さんが引っ張り上げて立たせた。 「ヘッドギアしてて良かったな。今のまともに食らってたら病院送りだぞ馬鹿者!」  会長に頭を叩かれていじけたように舌打ちをする薙沢を東代さんがぽんと肩に手を置いて励ます。 「……準兄、悪かったよ。練習にならなくて」 「いや、これはこれでスリルがあって面白かったけどね。俺も本気で殴って悪かった」  互いにヘッドギアというらしい頭部の防具とグローブを外しタオルで汗まみれの顔を拭った。 「東代、コーナーへの詰め方が甘いぞ。薙沢に逃げられやがって。あそこで決めなくてどうする!」  リングから降りた東代さんを会長が指導し始めたので、すっかり僕のやることがなくなってしまう。 「カッコ悪いところ見られたな」  リングの側にある椅子に腰かけて、溜め息を吐く。僕はその傍らに立った。 「そんなことないよ! すごくカッコ良かった!」 「はは、慰めはいらねえよ」  正直な気持ちだった。自分よりも大きく実力もある相手に物怖じせず果敢に攻撃を仕掛けていく姿は格好良かった。それに、あの眼光の鋭さと気迫は、東代さんほどの実力者でなければ身を引いてしまうだろう。 「いつか準兄に一発ぶち込みてえな」  そういう意味じゃないということは分かっているが、年中沸いている頭ではどうしても変な想像をしてしまう。どちらの意味にしろ、僕なら大歓迎なのだけど。 「で、お前練習一日やってどうだった? やってけそうか?」 「うん、運動自体はそんなに得意じゃないんだけど、結構楽しくて」  何より薙沢に教えてもらえたり、こうして話していられるのは嬉しい。 「そうか。じゃあ、明日からも宜しくな」  差し出されたごつごつした大きな手を握り返しながら、このまま握り潰してくれないかななどと邪な感情を抱きつつ「うん!」と大きく頷いた。

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