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第4話 愛
その運命的な日からボクシングを始めて一カ月が経った。毎日十キロの走り込み、一時間の縄跳び、三十分のシャドーと三十分のサンドバッグ。ただひたすらそれを続けるだけの毎日だった。母さんにボクシングを始めたこと、月謝は練習後にジムの清掃をやることでチャラにしてもらっていることを伝えると、僕がいじめに合っているのではと思って心配していたらしく、ジムで仲良くしてくれている人がいると話すと安心したようだった。薙沢は走り込みを一緒にやったり、技術面以外の面倒を見てくれているから、本当に有り難いし、お陰で何も苦に感じなかった。
一つジムに通うようになって不思議なことがある。今までと変わらない恰好をしているにも関わらず、喧嘩を売られることが無くなったことだ。少し筋肉が付いたと言っても見違えるほどではなかったから、薙沢効果なのだろうか。
でも、初めて会った時以降薙沢が喧嘩をしているところを見たことが無い。本人に聞いてみたら、ジムの会長にスカウトされるまでは毎日喧嘩三昧で、売られた喧嘩は買うという感じだったらしい。人を力で屈服させることが楽しかったのだそうだ。今はすっかりスポーツマンになって喧嘩はしなくなってしまったけれど。もしその時に薙沢に会っていたら――僕の願いは簡単に叶えられたかもしれない。
でも、今の状況が嫌ではなかった。ボクシングと言うスポーツも練習もそれなりに楽しかった。今まで他人に苦痛を味合わせられることが快感だったが――今でも変わらずにそうだとは思うけれど――、自分で自分を虐め倒すのもなかなか面白いと思うようになった。まあ、恐らくは「薙沢」の存在が、そのどれもを超越しているのだと思う。
理解できないのは、薙沢のどこがそれほどに僕を惹きつけるのかということ。「圧倒的な力を持っている人」「筋肉質な人」なら、東代さんを含めジムにいっぱい居るから、ぶん殴られるだけだったら誰でもいい気がする。それなのに、薙沢にだけドキドキするのはどうしてなのか?
――これは恋だな。それも初めてぶん殴られた衝撃の初恋よりも、もっと違う、何か、だ。その「何か」が分かればいいのだけど。
いつものように練習を終えたところで、会長が全員を集めた。そして薙沢を手招きして呼ぶ。
「一ヶ月の謹慎が解けたこともあり、来月のプロテストに薙沢を受けさせることにした。一層気を引き締めて練習に励めよ」
会長から詳細の書いてある紙を手渡されて、「よっしゃ!」と声を出して喜ぶ薙沢に皆拍手と激励の言葉を贈った。
「先月のプロテストが見送りになったのは残念だったけど、ようやく受けられてよかった」
東代さんが笑顔でそう言うので、ずっと気になっていたことを聞こうと決意する。
「薙沢が、謹慎させられたのってどうしてです? 練習にも真摯に向き合っていたし、彼が罰を受けるようなことをしたとは思えないです」
「ちょうど岡本君が入った日の前日に、同級生ともめて喧嘩をしたらしいんだよね。それを見かけた人がいて、その事が会長の耳に入ったもんだから、大目玉を喰らったんだ。プロになろうってやつが喧嘩なんて言語道断だ、ってね」
苦笑する東代さんを見詰めながら、その原因を作ったのは自分だという事実に呆然とした。
ただ殴られたいからという理由で金髪ゴリラの喧嘩を買った。明らかに弱そうな僕に同情して止めに入ってくれたのだろう。薙沢は相手を殴って受けられるはずだったプロテストを棒に振ったのだ。
この一ヶ月、僕は彼の練習の邪魔にしかなってなかっただろうし、謹慎の原因になった奴に教えるのは普通は苦痛に思うはずだ。僕はそんなことも知らず、ただ浮かれて薙沢の後ろを付いて回った。薙沢は嫌な顔一つせず目を掛けてくれた。
「……喧嘩をしたのは、彼のせいじゃないですよ」
会長と手続きの話をしているらしい薙沢を遠目に見詰めながら、唇を噛み締める。
「うん、僕もそう思うよ」
「え……?」
「何か他の理由があったんだとは思うけど、殴ったのは事実だ。ボクサーが拳を振るうのはリングの上であるべきだよ」
普段東代さんは虫も殺せないのではと思うほど優しく穏やかだが、他のジムから同階級の選手が練習試合にやって来たことがあったが、リングに上がると一変し相手に容赦のない一発を食らわせていた。二ラウンドKOという圧倒的な強さで勝利。会長はまだ甘さがあると言うけれど、それでも普段からは想像もできない姿だ。スポーツとして、切り替えてやっている証拠だろう。
「まあ、薙沢も分かっててやったんだろうし、ちゃんと反省してたからこうしてプロテストを受けられるんだ。応援しないとね」
優しく微笑む東代さんに「はい」と返事をして、会長らに向かってくる薙沢に気づいて居直る。
「二人とも何の話してんだ?」
訝しげな表情で僕の顔をちらと見る。薙沢に謝るのがいいのか、と思ったが東代さんは何かを察したのか、僕に目配せをする。
「いや、プロテスト受けれて良かったねって話」
「は? 受かってから盛り上がってくれよな。まあ、余裕で受かるけどさ」
「じゃあ、合格祝いに焼き肉奢らないとね」
東代さんの言葉に「絶対だからな」と念を押す。そして二人揃ってロッカールームに向かった。
ふうと溜め息を吐いて、一人残された僕は、いつものように道具の手入れをすることにした。道具の手入れが終わったら清掃作業だ。リングをタオルで丁寧に拭いて、床をモップ掛けする。それが終わる頃には、全員帰っている。
再び掃除で汗を流した僕は、ジムに備え付けられているシャワー室を利用しながら掃除をするのが日課になっていた。ジム生が利用している間は、仕切りがない共用スペースだから、筋肉質な男達の全裸を拝むことになり、下半身が大変なことになりかねない。それに、薙沢が僕の身体に残る傷痕を見て驚いていたから、きっと他の人も同じだろうと露出を控えていたのもある。
静かになったシャワー室で一日分の汗を流した後、洗剤を撒いてブラシで床や壁を磨く。大体終えた頃にはまた汗を掻いているので、軽くシャワーで流しつつ洗剤を洗い流して排水溝のゴミを取り除いたら終わりだ。
「キヨ、使ってもいいか」
「うわああぁ!」
突然の声にびっくりして振り返った瞬間、声の主が薙沢だったこと、また彼が全裸だったことに驚き過ぎてその場に全力ですっ転んだ。
「大丈夫か」
慌てて駆け寄って来た彼を見て完全に思考停止、硬直してしまう。目の前に心配そうな彼の顔と、引き締まった美しい身体、何度もズリネタにしていた妄想よりも遥かに大きい彼の大事な息子を直視してしまって、顔も体も一気に沸騰したかのように熱くなった。
薙沢が座り込んでいる僕を起こそうと腕を掴む。いや、ダメだ、やばい。僕の息子がアップし始めているのが分かる。慌てて前を隠そうとした瞬間だった。薙沢は僕の元気に起き上がった息子と目が合っていた。――終わった。
「……すまん。お前が処理してる最中とは知らなかったんだ」
ばつが悪そうに頬を掻きながら視線を逸らす。彼の顔は真っ赤だった。身体の奥が、微かに疼いた。
「……違う。薙沢が、来たから」
どうしてそんなことを言ったんだろう。ただ薙沢が頬を赤らめながら目を丸くする顔が見たかったんだと、その表情を見ながら思った。
「僕があの日どうしてジムの前に居たと思う? ボクシングに興味あったから、なんて本気で思ってるの?」
まるで腹の底に溜まった汚泥が溢れ出てきたようだった。これを言ったら、薙沢は僕を嫌うだろう。「気持ち悪い」とか罵声を浴びせ掛けるかも。嫌がる彼に迫ったら、ぶん殴ってくれるかもしれない。そんなことを考えながら、沸々と湧いてくる歪んだ感情に身を任せようとしていた。
「……いや、自惚れかもしれねえが、何となく俺を探して来たんじゃねえかって――」
「そうだよ、君を追ってあそこにいた。ま、ついでにジム生の筋肉質な半裸を眺めて興奮してたんだけどね」
顔を強張らせている彼は、何を考えているんだろう。僕がゲイだということに気付いただろうか。僕が薙沢にどういう感情を抱いているか分かっただろうか。
僕は、拒絶されたいと思っている。言葉で一生消えない傷を植え付けて欲しいと思っている。だって、僕が彼に対して抱く感情なんて、こんな薄汚くどす黒い湾曲した欲望に過ぎないのだ。最初から、きっと彼に打ちのめされたかっただけだ。「何か」なんて、何処にも無かったんだ。
「僕は君に、薙沢に殴られたかったんだ。立ち上がれないくらいぼこぼこにされたかった。だから、君を探してた」
そうだ、初めから、それが全てで、それだけを望んでいたじゃないか。薙沢が明らかに困惑した表情で僕を見詰める。
「どうして、殴られてえんだ?」
「そういう性癖なんだ。人に苦痛を与えられることが快感なんだ。薙沢は強いから、君に殴られたらどれくらい気持ち良いだろうかって、この一カ月はそのことばかり考えてたよ」
「ど変態野郎! 気持ち悪いんだよ!」と、そう罵ってくれ、ついでに気の済むまで足蹴にしてくれ、そして「もう二度と面見せるな!」と言ってくれ。……言ってくれよ。
「……何で泣いてる?」
「え?」
驚いて頬に触れるとシャワーの水ではない、紛れも無い涙が流れていた。どうしたっていうんだ、僕は……僕は、これを望んでたはずなのに、「何で泣いてる」――?
頭が真っ白になっていた僕の方に、薙沢の手が伸びてくるのが見えて身を固くする。平手打ちでもされるのかと思ったその手が僕の頭の後ろに回され、そのまま力強く彼の肩に押し付けられた。
「面と向かって言えねえから今この状態で言いたいんだが、いいか」
彼の顔は全く見えない。今どんな表情をしているんだろう。だけど、顔を見なくても分かることがあった。彼の鼓動が、僕に伝わるくらい高鳴っていること。
「俺は喧嘩に関与しないようにしてるんだ。ボクサーだし、これで食ってく夢もあるから」
東代さんと話したことを思い出す。僕を庇ったせいでプロテストが見送りになってしまったこと。僕が薙沢の夢を邪魔したんだと思うと胸が締め付けられるようだった。
「けどな、あの時俺はお前を助けただろ。喧嘩に巻き込まれること分かってて、相手を殴らないといけない状況になるリスクもあったのに、だ。あれは多分、気分でやったことじゃねえ」
どくんと心臓が大きく跳ねた。僕は、期待している。罵り言葉や暴力じゃない「何か」を。この後に続く言葉を、その意味を。僕は今確かに、希望していた。
「お前にボクシングを半分無理矢理に始めさせたのも、きっとお前が喧嘩吹っかけられて殴られるのが嫌だと思ったからだ。よくわかんねえけど、多分」
気が付いた時にはいつの間にか涙は止まっていて、触れた部分に彼の温もりを感じながら、どことなくふんわりと綿毛が身体を包み込むような感覚と心の奥の方がじんわりと温かくなっていくのを感じていた。
「分かってねえようだから言っとくけどよ、お前、結構綺麗な顔してるんだぜ」
「え……?」
「だから、俺は傷つけられないくらい自分で身を守れるようになって欲しかったんだ。お前がその……殴られたくてそうなってるとは知らずに」
初めて会った時も「綺麗な顔」と言われた気がする。その時は気にもしなかったけれど。あれはそういう意味だったのかと今になって理解する。
「……ねえ、それって――」
「言うな! 分かってる! 多分独占欲とか、そういうもんだよ!」
顔を見ようとしたけれど、がっちり頭が固定されてしまっていて叶わなかった。でも、微かに横目に見える彼の耳は真っ赤で、ああ、恥ずかしいのもドキドキしてるのも、僕だけじゃないと思った。
「ああ、終わりだ、終わり! シャワー浴びて片付けて帰ろうぜ!」
と、彼はすっくと立ち上がると、目の前のシャワーヘッドを乱暴に引っ掴み、水を全開にして簡単に浴びてさっさと出て行ってしまった。
呆然とした見送るだけの僕に、「早く終わらせろ! 待っててやるから!」と、廊下を挟んで正面のロッカールームの方から声がした。
僕は急いでシャワーで壁や床に残った泡を洗い流した。ようやく思考回路が回り出し、さっきの状況や彼の言葉を思い出して、急に恥ずかしくなる。
そこでようやく気付いた。僕が感じていた「何か」は、肉体に苦痛や快感を与えられたいという醜い欲望じゃなく、互いを想い合い、毛布で身体を温め合うような、時に頬を撫ぜられるようなくすぐったさを感じる、「愛」って奴だったんだなあ、と。
彼に殴られたいという欲望が無いわけじゃない。僕はきっと根っからのマゾヒストだから、薙沢に凌辱される淫らな妄想にこれからも耽るだろう。
それでも、僕は――恐らく「僕ら」は――、恋をしていた。だって、清々しいほどの真っ青な、春の中に居るんだから。
排水溝のゴミを取り除いて、掃除が終わり、ロッカールームに走った。そこには着替え途中の薙沢が立っていた。
「好きだ」
自然と口をついて出た言葉に、ようやく納得しながら、薙沢からの返事を待つ。
「分かったから先に服着ろ!」
予想とは違う言葉に傷付いたが、顔を背けて赤らめる彼に、初めてロッカールームで着替えた時の姿を重ねて、あああの時は、と理解した。
「ご、ごめん!」
慌ててパンツを穿いてシャツに腕を通した、その次の瞬間、顎を掴まれて上向かされ、すぐ目の前に薙沢の顔があった。と、唇に柔らかな感触がしたかと思うと、すぐに離れていってしまった。
「……俺は一目惚れだからな。お前より好きだぞ、絶対」
初めてしたキスの感触とその味は形容しがたく、ただ苦痛を味わった時とは違う高揚と悦びに打ち震えた。背中を向けて言った薙沢の耳は真っ赤になっていて、破れそうなほど激しい鼓動を抑えながら、僕はその背に額を付けて目を閉じた。
僕にこんな感情があったのだと、ただ充足感を覚え、目の前の想い人の体温を愛おしく思う。
ああ、僕のこれは――いつか醜い感情に汚されてしまったとしても――今は醜くも歪んでもない、紛れもなく純粋な、「愛」だった。
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