5 / 6
第5話 プロテスト
後楽園ホール。ボクサーが初めてプロになるリングの一つだ。その廊下で、関係者以外立ち入り禁止と貼り紙のされたところに僕は立っていた。ここに合格者の番号が貼り出されることになっている。
筆記試験を終えた後、順番に呼ばれて二ラウンドの試合を行う。全試合終了後に合格発表。今頃会長と会長は、今日の主役に付いているはずだ。
「薙沢なら合格間違いないよ。そんなに緊張しなくてもいいのに」
苦笑しながら東代さんが僕の肩にぽんと手を置く。東代さんはライセンス所持者だから、ホールで試合を観れるそうなのだが、無理矢理ついてきた僕が青ざめた顔で廊下をうろうろしてるのを見かねてついていてくれている。
そう、今日は薙沢のプロテスト受験日だ。筆記試験も終わり、今は受験者同士のスパーリングによる実技試験の真っ最中だ。
「わ、分かっているんですけど、でも、何ていうか、薙沢の相手が凄く強くてまともに打たせてもらえなかったらって……」
そういう不運もあるというのをプロテストを受けた人が書き込んでいる掲示板を覗いたら書いてあって、昨夜から眠れないほど不安で仕方なくなってしまった。
「一ラウンドにどれだけ打たせてもらえるかで言うなら、相手が持たなくてっていう方だと思うけど。どちらにしろ薙沢の対戦相手には同情するよ」
「……薙沢が強いのは、新人の中でもそうでしょうか」
不良だった頃は勿論負け無しの伝説的な高校生だったが、ボクシングというルールに縛られた殴り合いではどうなのだろうか。東代さんとのスパーリングで倒されている姿しかこの一月見ていなかったのもあり、彼のボクサーとしての強さがいまいち伝わらなかった。無論、薙沢のボクシングをしている姿は勃起ものの素晴らしさがあるのは当然のことであるが。
「はは、新人どころか、うちのジムの階級上の四回戦の選手でもスパー相手には選ばないよ。薙沢相手じゃ自分が怪我するからね」
「それじゃ……東代さんとしかスパーリングできない……?」
「そうだね」と笑う東代さんを見て、空いた口が塞がらなかった。ジムに数人プロが居るが、その誰ともやっているのを見たことがない。それはアマチュアだからではなく、薙沢の腕力と天性の才能が並大抵ではないからだったのだ。
「階級が違っても同じジムだから、薙沢とやり合う機会があって僕は幸運だ。彼からは良い刺激をもらっている」
「薙沢も東代さんも互いに刺激を与えあっているんですね。そういうの、凄く憧れます」
男同士のライバルであり親友であり、みたいな関係は大体ボーイズラブの定番のカップリングとして成立しているし、ゲイとしても男臭い感じが堪らなくそそるものだが、残念ながらこの二人の間に恋愛感情は勿論ない。
「あの、さ……前から聞きたかったことがあるんだけど……いいかな?」
言いにくそうに言葉を濁しながら東代さんが訊ねるのを妄想の世界に片足突っ込んでいた僕は、呆けた顔で首を傾げる。
「薙沢と君は、その……付き合っているのかい?」
頭が爆発したのかと思うくらい思考の一切合切がぶっ飛んで、破壊された回線を必死に繋ぎ合わせた瞬間に一気に羞恥心が溢れ出て、顔から火が出ても可笑しくないほど熱くなった。
「やっぱり、そうか……」
「あ、いや、ち、違います! いえ、違くはないんですが、彼はノーマルです! 僕がゲイで、その、彼は」
「落ち着いて……! 大丈夫、ただ何となく聞いただけだから」
周囲の目を気にしてか、大きな声を出した僕に人差し指を立てる。
誰にも言っていなかった。言う必要がないというのと、同性愛というのは男だらけのボクシングの世界で話題にしてはいけないことだと思ったからだ。僕が変な目で見られるのは構わないけれど、寧ろ蔑まれれば悦びを覚えられるだろうけれど、薙沢がそういう偏見の目に曝される形にはしたくなかった。
「ど、どうして、分かって……」
「前に、二人が練習後に一緒にジムから出てくるのを見かけてね。そうなのかな、と」
僕が清掃を終えるのを薙沢が待っててくれて、毎日駅前まで一緒に帰っている。それは秘密で、誰にも見られていないと思っていたのに、迂闊だった。
「あ、誰にも言わないから安心して。男同士とかも偏見ないから、そんな顔強張らせないで大丈夫だよ」
東代さんはいつものように柔らかな笑顔を向けてくれ、そして少し照れたように視線を逸らして頬を掻く。
「しかし薙沢も恋とかするんだなあ。高校生だし青春だし、当然なのかもしれないけど、そういうの全く興味無さそうだったのに」
高校に進学してから喧嘩三昧の日々、今はボクシングに夢中になっている。男にばかり囲まれて、女っ気のない青春だ。そう言われれば僕も恋とは無縁だったかもしれない。日々欲望と妄想にまみれていたけれど。
「まあ……うん、分からなくもないかな」
僕の顔を見て、東代さんが何か納得したように頷く。僕からノンケを落とすオーラでも出ているとでも言うのだろうか。だったら僕の高校の不良全員に作用して、僕は今頃夢の肉便器になれているはずだが、現実はそう甘くない。今では誰も見向きもしてくれなくて、放置プレイの妄想を楽しむのも限界に来ているほどだと言うのに。
「この後の合格祝いの焼肉来るでしょ? 会長と僕の奢りだから、お金のことは気にしなくていいよ」
その言葉に、昨日別れ際に約束したことを思い出した。
「明日ついにプロテストだね」
普段と何の変わりもない練習メニューを淡々とこなしていた。ジム生からわざとプレッシャーを掛けるような激励をされても、「余裕だ」と拳を突き出してみせた。
駅前のいつものロータリーが見えてきたところで、突然薙沢が僕の腕を掴んで人通りの少ない脇道に入った。と、壁に押さえつけられるような感じで強引に口づけられる。あの日から、僕がキスしたいとねだらなければ一度だってしてくれなかったのに、どうして今……。
わずかに紅潮した薙沢の顔は、夕日に照らされていっそう赤く見える。彼の真剣な眼差しに心臓を貫かれて息もできない。いつもなら異常なほどの性衝動に駆られて薙沢に引かれるところだが、それさえも引っ込んでしまっている。
「明日、テスト合格したら……お前の家に行く」
「え……」
薙沢とキスする度に欲情して、セックスアピールをしていたが、全部拒絶されてきたし、挙句「そういうこと言うならもうしない」と言われて最近はキスさえもお預けを喰らっていた。薙沢は僕と違って性欲があまりないのだろうと独り寂しく自分を慰めてばかりの日々である。
しかし、今薙沢の口から出た言葉に、僕は期待せずにはいられなかった。僕から離れ顔を背ける。仏頂面で耳まで赤く染めた薙沢の横顔に止まった心臓が高鳴り出すのを感じた。
「前に言ってただろ。お前、夜は一人だって」
「そう、だけど……あの、それって……」
思考が求めていた答えに行き着いて、噴出しそうになった衝動を抑えながら、薙沢の服の袖を掴む。
「……約束だぞ」
横目に僕を見詰める薙沢は、僅かに表情を固くしていた。僕はただ、彼の目を覗き込みながら、頷いた。
「僕は、約束が……あるので……その、すみません」
「いや、良いんだ。残念だけど」
本当は出たいけれど、薙沢が合格祝いをしている間、僕は家でやることがある。しっかり準備をして、万全の態勢で薙沢を迎え入れたい。昨日の帰りにアダルトショップで道具は揃えたし、あとは合格発表を待つだけだ。
「おーい」
と、遠くから会長の声がして、顔を上げると関係者口の方から会長とマネージャーが廊下を歩いてくる。その後ろには、汗もほとんど掻いていない薙沢の姿が見えた。
「会長、マネージャーお疲れ様です。薙沢もお疲れ」
東代さんがにこやかに笑い声を掛ける。心臓が破裂しそうだった。まだ闘争心を燻らせたままのぎらついた薙沢の目が僕を捉えたから。
「こいつ、開始に軽くワンツーとジャブ見せたかと思ったら、ヘッドギアの上からぶん殴って一発KOさせやがった」
「一応点数つけれるように基本は見せたんだからいいだろ」
会長に肘で小突かれ、不満そうに眉間に皺を寄せながら言う。
「ね、言ったでしょ。心配なのは相手だって」
苦笑しながら東代さんに肩をぽんと叩かれ、僕はびくと肩を震わせた。ダメだ、今は。
「もうすぐ発表されるみたいですよ。受験者今日少なかったですから」
中年の中肉中背の、少し地味な顔のマネージャーがジムから持ってきたグローブなどの荷物と受験票を手に言う。
そうしているうちにA4用紙一枚を持って、男性が早足気味に歩いてくる。そして番号の書かれた紙を壁に貼り付けて少し離れたところに下がった。
「あっ、ありますね。薙沢の」
マネージャーと会長が受験票と見比べて、頷き合うのを見て、喜びと同時にこれからのことを思い、新しい緊張感が襲い掛かってくる。
「やったな、薙沢」
「これで俺も準兄と同じ土俵って訳だ」
そう言って拳をぶつけ合う二人を呆然と眺めていると、合格者へのアナウンスがあり、会長と薙沢はプロライセンスの発行手続きに向かうようだった。
「な、薙沢……おめでとう!」
絞り出すように声を掛けると、薙沢は嬉しそうに笑って「ああ」と答えた。もう、ダメだ、身体が勝手に反応する。
「あー、ちょっとトイレ行ってくっからオヤジ先に行っててくれよ」
相手の返事も待たずに薙沢は「キヨ、お前も付き合え」と僕の腕を掴んで廊下の突き当たりにあったトイレに入っていく。ちょうど誰もいないそこで、薙沢が僕に向き直った。
「約束しただろ。俺は合格祝いの焼肉喰ったらお前の家に行く」
「……うん、ごめん……」
半勃ちの息子をシャツで隠す。ああ、また引かれた。また先延ばしにされる。焦らしプレイだと思えば耐えられるけど、その先にご褒美が待っているかどうかなんて分からないのだから、どうやって気持ちを盛り上げたら良いかと考える。
「男同士って……色々大変なんだろ。準備とか……ちゃんと調べてねえからわかんねえけど」
男同士のセックスの仕方を調べたのだろうか。それで、動画でも目にして、男女と男同士のあまりの違いに嫌になったとか、やっぱり女の方がいいと思ったとか。
「そうでもない、よ……僕は、薙沢が好きだから、何でも……」
それで僕とのことも嫌になったとか。言われるんだろうか。言われたら、もう、きっとどんな汚い罵り言葉を投げ掛けられても愉悦に変換できる僕でも耐えられないだろうな。
「……ああ、もうお前、何で泣くんだよ!」
「だって、薙沢が嫌になったって……」
「言ってねえだろ、そんなこと! 勝手に暴走すんじゃねえよ!」
頭を掻き回すように撫でられて、僕は独りでに溢れ零れ落ちる涙を服の袖で拭った。
「お前が女役で良いんだよな?」
呆然と薙沢の言葉を聞いて、理解して、こくんと人形のように頷く。
「ならいい。俺はそっちは無理だから、その辺をちゃんと聞きたかっただけだ。っつうか……俺がお前を抱きたいだけの話なんだけどな」
と、自分で言って顔を真っ赤にする薙沢を見上げながら、一瞬で心臓を鷲掴みにされていた。
「ちゃんと準備して、待ってるから……できるだけ早く来てくれると、嬉しい」
「ああ、さっさと食ってすぐ行く。だから変なこと考えずに待ってろ」
ぽんぽんと頭に手を乗っけられて、嬉しくなって笑い掛ける。と、薙沢が眉間に皺を寄せて、「じゃあな」とつっけんどんに言って去っていった。また何か不機嫌になることをしたかと思ったけど、薙沢は結構ツンデレというかデレツンというか、そういうところがあるから考えないようにする。
トイレから出ると、廊下で待っていた東代さんに帰ることを伝えて、後楽園ホールを後にした。
ともだちにシェアしよう!