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3.仮初めの距離(9)
「ねぇ先生」
課題は最後の一枚になっていた。
途中までずっと立っていた先生も、いまでは地面に直接座り込んでいる。ドアを背に、銜え煙草の先から細い紫煙を燻らせながら、先生は眺めていた空から俺へと視線を移す。
「なんだ。また詰まったのか」
「や、そうじゃなくて……」
問い返されると、一瞬言葉に詰まった。
先生が腰を下ろしたことで、いつにも増して距離が近くなっていた。手を伸ばせば容易く届いてしまう距離。それだけに耳に届く声も近く、おかげでなかなか心が落ち着かない。
それでも努めて平静を装い、俺は聞きたかった疑問を口にする。
「あのさ、瀬名の子供の……名前のことだけど」
「ああ……その話か」
「あれって……名木先生の名前からとったって話、本当ですか? なんか女子が先生から聞いたって……」
先生は無表情のまま瞬いて、再び空へと目を向けた。
「そういうことは瀬名先生(本人)に聞きなさいと言ったんだがな、俺は」
「……え、でもそれって」
肯定したも同じじゃん――。
雨は未だ降っていなかった。だが、垂れ込める暗雲が晴れそうな兆しも無い。
そんな空をぼんやり双眸に映して、先生は微かな笑みを浮かべた。
「あぁ、本当の話だ。瀬名先生の子供の名前は、俺の名前から取ったんだと」
先生は苦笑したわけじゃなかった。ただ普通に微笑んだのだ。
それが余計に俺の胸を突いた。
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