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3.仮初めの距離(10)

「それって……、前から約束とか、してたんですか」 「あー……まぁ、そんな話をしたことはあったな。俺の名前は、女の子にも使えるな、って。本気かどうかまでは知らなかったが」 「知らなかったって……先生はそれでよかったんですか。嫌なら嫌って言えば――」  どこか他人事のようにも聞こえる先生の口調に、思わず語気が荒れそうになる。  しかしそれを先生はあっさり制した。 「嫌じゃなかったんだよ、別に」 「え…――」  俺は瞠目し、信じがたいように先生の横顔を見詰める。  すると先生は不意に口元の煙草を指に取り、 「だってお前、これであの人は俺のことをずっと忘れないんだぞ。俺がいない時ですら、あの人は〝ミヅキ〟って呼び続けるんだ。そのたびに俺のことを……思い出すとは限らないがな」  俺を横目に見ながら更に笑みを深めた。 「暗い……とか思ってるんだろう。いいんだ、放っておけ」  そんな風に冗談めかして言われても、俺はもう一緒に笑ってはあげられない。  だからだろうか。先に目を逸らしたのは先生だった。  天候のせいか、時節のわりに辺りは随分暗くなっていた。  先生は再び空を見上げた。手に持っていた煙草を口元に戻し、眩しいみたいに目を細めた。 「今度、瀬名先生の家に行くんだ。そのミヅキちゃんの顔を見に。俺の名前を使ったんだから、せいぜい可愛く育って貰わないと――」 「先生。もうやめて下さい」  勢い余って口にすると、先生ははっとしたように身を凍らせた。  俺は僅かに視線を落とし、喉奥で小さく息を飲み込んだ。  そして、 「どうしてそこまで無理するんですか。どうしてそんなに頑張るんですか。その先なんて何も望んでいないのに」 「仲、……」 「俺には理解できません」  そこまで言い切ってから、おもむろに先生の手を取った。 「先生……何か俺にできることはないんですか。俺に少しでも、先生の苦しさを紛らわしてあげることはできない? ……別に俺を選んで、なんて言わないから」 「――お、前……」  縋るように指先に力を込めれば、先生の口元から煙草が零れ落ちる。  同時に、俺の膝上にあったプリントの束が崩れ、筆記具と共にその傍らに散らばった。

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