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5.近くて遠い距離(6)

 勧められるまま座卓の前に座り、目の前に置かれたアイスコーヒーのグラスに視線を落とす。  向かいに腰を下ろした先生の前には、簡素なスチールの灰皿が置かれた。先生はおもむろに取り出した煙草を口に銜え、手馴れた所作でそれに火を点けた。 「……じゃあ、本題に入れるな」  先生は一呼吸して紫煙を吐き出すと、伏し目がちにしていた視線を上げた。  急に目が合うと、心臓がドキリと跳ねる。うっかり身を硬くしてしまいそうになり、俺は心の中で「落ち着け」と自分に言い聞かせた。  色々有り過ぎて気にする余裕も無かったが、先生とこうして二人きりで顔を合わせるのはあの雨の日以来のことだった。  ――俺が先生と直接肌を重ねた日。  その事実を思い返すだけで、迂闊にも目端が熱を持つ。  それをどうにか誤魔化したくて、俺は先にコーヒーをひと口飲んだ。自分で思うよりずっと緊張していたのか、からからに乾いていた喉を潤すのにも丁度良かった。 「先生が、辞表を出したって聞きました」 「……耳が早いな」 「俺と加治以外は知りません」  俺はグラスをテーブルに戻し、改めて顔を上げた。  反して先生は再び視線を落とし、引き寄せた灰皿にトントンと煙草の灰を弾いていた。 「本気、なんですか」  継いだ声が、早くも震えそうになる。  らしくない自分を叱咤して、 「本気で辞めるつもりなんですか」  今度は努めて平然と言う。  先生は俯いたまま静かに答えた。 「……俺はそのつもりだが。瀬名先生がなかなか許してくれない」 「は……?」  相変わらず先生の声には抑揚が無い。それでは感情が見えない。何よりその言い草に、俺は一瞬かっとなった。

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