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5.近くて遠い距離(12)

「仲矢。こっちを向け」  俺を呼ぶ先生の声には、まだ少し戸惑いの色があった。  再度「仲矢」と呼ばれても、俺は頑なに顔を逸らしていた。先生の方を見ようともしなかった。 「悪かった。俺は本当に駄目な教師だな。こうしてお前に言われるまで、そんなこと思いもしなかった」  先生はぽつりと言って、今更気づいたように、灰皿で燻っていた煙草の火を消した。  次いでその手がまっすぐ俺へと伸ばされる。見なくても、気配で分かった。  先生の指先が、俺の頬に触れた。かと思うと、すぐに離れる。そして今度は髪に触れる。頭をそっと、撫でられた。 「なってしまったものは仕方ない。ここから最善の方向に持って行けばいい。広…瀬名先生は、そうも言っていた。俺はそれにもやはり納得はできなかったが」  ピンと張り詰めていた空気が、徐々に弛緩していく。  日頃と同じで、その口調は平坦だ。そう感情が込められている風にも聞こえない。  でも、いまはそのことにほっとする。  先生が、俺の知るいつもの先生に戻ったような気がしたからかもしれない。頭に触れている手の温もりも心地良かった。  いつのまにか涙は引いていた。幸い、零れるには至らなかった。 「加治に気づいた後、考えを改めた瀬名先生は、それならせめて、一緒に謝らせて欲しいと言ってくれた。明日報告に行く予定だった校長や他の先生方、生徒たち、そして何より仲矢――お前に申し訳が立たないと」 「………」 「安易に責任を取るなんて口にしてはいけないな」  先生の手があやすように動く。こんな風に頭を撫でられるなんて、いつ振りのことだろう。  時折バイト先で、年上のお姉さんにされそうになることはあったけど、そのたび「子ども扱いしないで下さい」と言ってさりげなく逃げていた。  だけど、冷静になって考えてみると、それこそ子供じみた反応のような気もする。  前に先生が嫌いと言ったのは目敏すぎる子供だったけど、今度みたいに、先生を脅すような真似をする俺のことも、やっぱり嫌いな子供だって思いますか……?  俺は俯いたまま、心の中で問いかける。  先生が辞めるくらいなら、俺が先に辞めてやる――なんて、実質脅迫以外の何物でもない。  もちろんそれだけのつもりで言ったわけじゃないけど、その自覚がなかったと言えば嘘になる。  だけどこの時の俺にはそれしか方法が思い付かなかった。それで先生を繋ぎとめておけるなら、構わないじゃないかと思ってしまった。  ――ごめん、先生。  その優しさに甘えて。その誠実さに付け込んで。  声に出さずに呟いて、俺は一度瞑目する。胸の奥がまた締め付けられるように痛んだけど、それにもいまは目を瞑った。

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