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6.本当の距離(1)

「はは、ホントだ。張り紙増えてら」  期末試験が終わると、終業式の日まではあっと言う間だった。明日からは高校生活最後の夏休みが始まる。  一学期最終日となるその日の放課後、俺は部活は午後からだと言う加治と共に、屋上へと続く階段を上った。互いに帰り支度は済ませており、小脇には薄っぺらな学生カバンを抱えている。  やがて見えてきたドアガラスには、手書きで「屋上の使用厳禁」と書かれたが紙が貼ってあった。 「でも鍵は相変わらず緩ぃな」  ドアの前で足を止めると、そう言って加治は簡単に施錠を解いた。次いで重い金属の扉を押し開け、躊躇うことなく外へと踏み出す。  続いて俺もドアを潜り、風に乱れる髪を掻き上げながら、二人してフェンス際まで歩いて行った。  途中、ちらりと周囲を一望したが、他に人の気配はないようだった。まぁ鍵は開いていなかったのだから、当然と言えば当然か。 「眩し……」  晴天の空から降り注ぐ陽光に、厭わしげに目を眇める。隣に立つ加治もまた、堪えきれないように頭上に手を掲げていた。  屋上に俺が直接足を踏み入れたのは、あの日以来のことだった。  俺が初めて名木先生に触れて、初めて肌を重ねた日――思えばそれが同じ日の出来事だったなんて、今でもちょっと信じられない。  最初からそれだけが目的の相手なら、まぁアリかなとは思う。でも、俺にとっての名木先生は、間違ってもそう言う対象ではなくて……、本当に心から好きで、大切な人で、そう簡単には触れてはいけない人だった。  なのに俺は、その想いが完全に一方通行と知っていながら、あの人を組み敷いてしまった。それも一度だけでなく二度までも。  口では何も望んでいないと言いながら、あの人の弱さにつけ込んで、優しさに甘えて、そうして救うどころか、更にあの人を惑わせてしまったのだ。 「残念だよなぁ。せっかく、訓告処分? ってやつだけで終わらせてくれてたっつーのに」  その結果がこれだ。  俺は加治の言葉に、僅かに目を細めた。  停学が明けて、改めて化学準備室に呼び出された俺は、今にも土下座しそうな勢いで頭を下げる瀬名からこう説明を受けた。 「お前の処分は撤回されたから、内申書に傷はつかない」  俺は愕然とした。  とにかくもう放っておいてほしいとあれだけ訴えたのに、結局は何にもならなかったのだ。  名木先生は当初の予定通り、俺が自宅まで押しかけた翌日には瀬名と共に校長室を訪れ、全てを告白していたらしく、その結果として俺の停学撤回と、名木先生自身への処分の裁定がなされたとのことだった。 「お前たっての願いと言うことで、表向きは何の処置もとられていないが、もちろんそれも、お前さえ納得してくれればすぐにでも――」  そう続けた瀬名に、俺は考えるまでもなく首を横に振った。これ以上余計なことはしないで下さいと、呆然としながらも念を押した。  何度考えても釈然としなかった。  それからいくら平常通りの生活を送れる日々に戻っても、やはりどこかで腑に落ちないと感じていた。  それでも、俺が現状(それ)を大人しく受け入れることで名木先生が少しでも楽になれるならと、無理矢理にでも気持ちに整理をつけていたのだ。  ――なのに。 「今期一杯って、なぁ。ちょっと急すぎだろ。いきなり今日が最後かよ。……せめて俺らの卒業まで待ってくれりゃ良かったのに」  フェンスに力なく片手を引っ掛けて、加治が落胆したように言う。 「先生が自分で決めたことだから、仕方ねぇよ」  俺は苦笑混じりに呟いて、フェンス越しに広がる遠景を漠然と眺めた。  雲一つない快晴の空が、どこまでも広がっていた。その澄みきった青色は目に痛いほどで、あの日の天気とはまるで正反対だとぼんやり思う。あの時には聞こえなかった蝉の声も耳についた。  加治は溜息をつき、「まぁそりゃそうだけど」と、小さく肩をすくめた。

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