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6.本当の距離(2)
名木先生の処分は、内々(ないない)に処理すると決まったこともあり、結果的には加治の言うように、口頭での厳重注意だけに終わったらしかった。
にもかかわらず、名木先生が選んだのは自ら退職する道で、しかも俺がそれを知ったのは、終業式も終盤に差し掛かった頃――要は今からたった数時間前のことだった。
「名木ちゃんって思ったより人気あったんだな。一部の女子なんて泣いてたぜ」
俺だって似たような心境にはなった。だが、実際には泣くに泣けず、逆に腹の中で失笑しただけだ。
退職の話を耳にした瞬間、「やっぱり」と思う自分がいた。心のどこかで、そうなることを予感していたのかもしれない。
考えてみれば、先生は一度たりとも口にしていなかった。「辞めない」と言う言葉だけは。
――だけど、それならそれで、今日までの日常は一体何だったんだろうと思う。
俺の処分が撤回されてからこっち、以前にも増して俺と名木先生の関係は一介の教師と生徒でしかなかった。
たまに屋上で顔を合わせることがあっても、どうでもいいような世間話をして終わるだけだったし、授業中はもとより、試験勉強に行き詰った際も、まるで他の生徒と変わらない態度で面倒を見てくれるだけだった。
誰もいない廊下で擦れ違っても、密やかに視線が絡むこともない。
でも俺はそれを、ある意味いいことだと思っていたのだ。
名木先生が瀬名のことで目に見えて落ち込むようなこともなく、俺は俺でいままでと同じように先生を見詰めていられる。そんな変わらない日々が、互いにとって一番の平穏で、一番の希望で、一番の幸せなのだと信じていたから。
だけど名木先生にとってそれは本意ではなかったわけだ。そんな不自然に自然な状況、本意でないどころか、寧ろ苦痛でしかなかったのかもしれない。
それを見越していたから、早々に辞職しようと決めたんだろう。
……まぁ、どっちにしても俺のせいだよね。俺が先生の人生を狂わせてしまったも同然だよね。
――ごめんなさい。
こんなことになるなら、最初から何も言わなければ良かった。ずっと見て見ぬふりだけを続けていれば良かった。
今更どんなに悔やんだって、結果は覆らない。そう頭では理解していても、自分を責めずにはいられなかった。
気がつけばズボンのポケットの中で、爪が食い込むほど強く拳を握り込んでいた。
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