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6.本当の距離(4)

 ……名木、先生。  ゆっくりと顔を向ける。  そこには、穏やかな面持ちでフェンス越しの空を見詰める先生の姿があった。 「さすがに暑いな」  独り言のような声に合わせて、銜え煙草が小さく揺れる。  俺は何も言えなかった。  先生は更に一歩前に出て、片手でそっとフェンスに触れた。 「お前も物好きだな。夏場の屋上(ここ)は地獄だぞ」 「……そうみたいですね」  辛うじてそう言葉を紡いだら、先生は少しだけ肩越しに俺を見た。  気温の所為だけでなく、手のひらにじっとりと汗が浮いていた。ポケットに残していた側の手が、半ば無意識に拳を作る。また暫しの沈黙が落ちた。  途切れることのない蝉の声と、自分の心臓の音ばかりがやたらとうるさい。  俺は必死に息を詰めた。鼓動が激しすぎて、吐く息さえ震えてしまいそうだった。 「お前には礼を言わなければならないと思っていた」  先に口を開いたのは先生だった。先生は前方に視線を戻し、僅かに目を細めた。 「…礼……?」  堪えようと努めても、声が上擦る。何気なく吐いたつもりの呼気が、不自然に引き攣った。  先生は微かに頷いた。 「お前が罪を被ってくれなければ、俺の再就職先はこんなにもすぐには見つからなかっただろう」 「次の学校、決まったんですか」  空笑いを顔に貼り付け、何とか問いかけると、「ああ」と、端的な答えが返ってきた。  胸にズキリと痛みが走った。  それを誤魔化すように、俺はハハ、と力なく笑う。 「そうですか。良かったですね」  心にもないことを口にしたら、胸の痛みが更に増した。  前髪を押さえていた指にも自然と力がこもり、そのまま掻き毟りたい衝動を抑えて、ただ強く毛先を握り込む。  先生はじっと眼前を見詰めたまま、淡々と言った。 「俺もまだまだだな。……生徒に守られているようじゃ話にならない」 「俺は守ったつもりはないですよ。……強いて言うなら、恩を売りたかっただけです。そうすれば、少しくらい先生の中に踏み込めるかと思って――土足で」  あえてそんな言い方を選び、皮肉るように笑ってみても、満たされるものなど何もない。――どころか、虚勢はたちまち自嘲に歪み、 「……ていうか……、今回のこと、ホント申し訳なかったです」  居た堪れなくなって呟くと、ついには俯けた顔を上げられなくなってしまう。

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