115 / 137

番外編.例題その1(完)

 ちなみに、何度か遊びに(?)来てはいたものの、端から見れば一介の教え子でしかない俺が、一人暮らしでもない先生の家の台所に立つのは初めてのことだった。  それでも特に気後れせずに踏み出せるのは、そこに理由があるからだ。  俺は隣室へと続く戸に向かい、徐に振り返った。  腰の後ろに枕を置いて、どうにか上体だけ起こしていた先生と視線が絡む。 「なんだ」 「いえ、別に」  無意識にだろう、先生の片目がピクリと眇められる。  その姿に、ふとささやかな悪戯心が湧いた。  ああ、俺も本当に懲りないな。  でも、ほら。  俺は先生より性格悪いから。  我ながらあっさり開き直れば、後は実行に移すだけ――。 「大人しく待っててくださいね」  俺が柔らかく微笑むと、先生は怪訝そうな表情(かお)をした。  意外に察しがいいじゃんと感心する。だってもちろん、俺のその笑顔には裏があるのだ。  俺は開けた襖を閉める前に、更にもったいぶって間をおいた。  そしてそろそろと戸を閉ざす直前、 「ヤりすぎて腰が立たない先生の為に、美味しいコーヒーを入れてきますから」  さらりとそう言い残すと、逃げるようにその場を離れた。さっと隙間を閉め切った直後、「バン」と何かが投げつけられる音がした。 「なんだ、思ったより元気」  込み上げた可笑しさに肩を揺らし、そんな先生の愛らしさに性懲りもなく心を弾ませる。  ヤりすぎて動けない、なんて先生は絶対認めないだろうけど。  だからこそ俺を許すのと引き換えみたいな言い方をしたんだろうけど。  でも、そんなの俺にはバレバレだから。  そう、先生は暫くベッドから離れられない。寝返りを打つことすらままならないようだったから、立って動くなんてもっと難しいに違いない。  それなのに、先生はいつも通りに毅然として見せようする。  言っとくけど逆効果だから。そんなの、かえって可愛くて弄りたくなるだから。  ただ、経緯はどうあれ、先生の役に立てることは純粋に嬉しくもあった。  いつも助けてもらってばかりの俺だから、こんなことでも先生の希望を叶えてあげられるなら本望だ。  だから慣れないこと――自宅(いえ)でも滅多にしない台所に立つなんてこと――でも素直にしてあげたいと思うんだろう。 「先生は二度とないみたいに言ったけど……」  廊下を進む足取りも自然と軽くなり、俺は改めて実感した。 「やっぱたまには必要でしょ。こう言う日も」  例え、先生がうんと言わなくてもさ?         ……end

ともだちにシェアしよう!