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春風空(1)

「うわ、桜咲いてる」  庭に面した、先生の部屋へと続く廊下の真ん中で、俺はふとそう言って足を止めた。すると前を歩いていた先生が振り返り、俺の視線を追って小さく笑う。 「この時期どこもそうだろう」 「違うよ、先生ん家の庭に桜があるとか知らなかったから」  俺は僅かに首を振って、目に留まった桜の木を改めて指差した。  のんびりとした、うららかな春の昼下がりだった。  一月ひとつきぶりくらいだろうか。卒業式を終えて、やっと『高校生』じゃなくなった俺は、自分でも笑えるくらい晴れやかな気持ちで名木先生の自宅を訪れていた。  何故ってこれでもう先生から生徒子供と言われることもないし、希望する大学にも無事合格して、入学準備の方もほぼ完了、後は数日後に控えた引越しを待つばかり――となれば、いつもみたいに小言を言われる理由もないからだ。  名木先生は元俺の高校、俺のクラスの副担任。それだけに立場や世間体を気にするのも解らなくはない。  だけど今は他校の先生で、結果として恋人になるのを承諾してくれたのは先生の方なのだ。それを後悔していないと言うのなら、そろそろその気持ちを体現してもらわないと――。  とか思いながら、結局はそう強いることもできず、現状に甘んじてしまうしかないんだけど。  まぁ、今のままでも十分幸せだし、言うほど不満があるわけでもないけど、それだけ俺も単純って言うか……。あ、もしかしてこれが惚れた弱みってやつ? なのかな。 「部屋はもう決まったと言っていたな」 「あ、はい。ここからだと、車で三十分位かかるとこですけど」 「そうか」  俺が桜に興味を示したのが意外だったらしく、先生はそれならせっかくだからと縁側でお茶にしようと言い出した。  先生の自宅は古めかしい日本家屋。一部増築されているとは言え、間取り的には外周に廊下があったり、日当たり良好な縁側があったりと、俺からしてみれば少々懐かしい感じのする様相だ。  先生は風が少ないのを良いことに縁側へと続く吐き出し窓を開け、言葉通り俺をそこに座らせた。  そして心なしか嬉しそうにキッチンに戻ると、ややして運んできたホットコーヒーの一方を俺へと差し出した。次いで俺の隣へと腰を下ろした先生の表情は、やはりいつになく穏やかに見える。 「しかし、実家からでも通える距離だろうに、何でまた一人暮らしなんて」 「通えるって言っても、車で一時間近くかかりますよ。俺、朝はできるだけギリギリまで寝てたいし。……それに」  俺は受け取ったカップを早速口元に寄せた。傍らにトレイを置いた先生も、同様に自身のカップを手に取った。  が、その仕草は刹那に止まり、双眸が俺に向く。

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