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春風空(2)

「それに?」  先生は僅かに首を傾げた。 「それに……」  俺は敢えて間を持たせるように、言葉の続きより先にカップをゆっくり傾けた。  先生は小さく瞬き、俺の返答を待っている。俺は温かな液体をひとくちだけ口内に含み、からかい混じりの笑みを浮かべた。  解ってるくせに。  口をつきそうになった言葉を、コーヒーと共に嚥下する。  そうしてやっと、続きを答えた。 「ほら、俺が一人暮らしなら、とりあえず場所には困らないじゃないですか」 「………」  案外、俺の向けた笑みだけで察しはついていたのかもしれない。  先生は束の間沈黙し、若干呆れた風に視線を前方の桜に戻した。隠すでもなく、深い溜息をついて、 「本当に、お前の頭にはそれしかないのか」  聞き慣れた抑揚の乏しい声でそう零す。俺は思わず笑みを深めた。  「お前の頭には――」なんて、もう何度聞いたか知れない科白だ。でも何度聞いてもそれを言うときの先生の表情(かお)が可愛すぎて、ついつい必要以上に言わせたくなってしまう。 「や、だってさ……まぁ、俺車の中でヤんの嫌いじゃないけど、やっぱたまにはゆっくり――」 「だからそれがこんな昼日中からする話かと言っている」  先生は再度嘆息すると、今度こそカップを口元に添えた。まるで何かを誤魔化すみたいにカップを傾け、数回に分けて喉を上下させる。それが照れ隠しでもあるのは明らかだ。 「先生が聞いたんでしょー」 「解った。もう解ったからその話はいい」  素っ気無い風に言って、先生は半分ほど飲み干したカップを持っていたソーサーの上に戻した。  ああもう、勝手に顔がにやける。以前はまるで解からなかった、言葉少なな先生の胸中が、いまなら手に取るようにわかる。  ね。いま、聞くんじゃなかったと思ってるでしょ。どんな顔をすればいいか解らないと思ってるでしょ。  一見では無表情としか見えないような、分かる人にしか分からない微妙な変化だけど、俺にはもうそれが一目瞭然だ。  可愛い人。  可愛くて可愛くてたまらない。  ――改めて思う。先生の長年の片想いが実らなくて良かったと。そして俺もまた、先生への想いを断ち切らなくて本当に良かったと。  高望みをしていたつもりはないけど、想い続けることで叶う望みもあるのだと、今更ながらそんな奇跡に感謝した。  俺は先生の横顔を暫く見詰め、やがてその視線を追うようにして庭の桜へと目を遣った。

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