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春風空(3)
満開と言うにはいま一歩と言う印象ながら、時折風に晒されて中空を舞う花弁の光景は純粋に綺麗だと思う。
「ねぇ先生」
「……なんだ」
「俺、引越しに合わせてバイク買うから」
穏やかな陽気と柔らかな春風の中、見惚れた風に桜を眺めたまま、ぽつりと呟く。
言えば先生は、「そう焦らなくても」とか、「もっとゆっくり考えてからでも」とか、とにかくいつもみたいに俺を諌めようとするだろうと思っていた。
仮にそうだったとして、俺の気持ちは変わらないし、決めたことを覆すつもりもなかったけど。
だけど、今回は珍しく予想が外れた。先生はただ静かに笑みを深めて、
「そうか」
と、曖昧に頷いただけ。
「――…」
今度はこっちが閉口する番だった。
桜から先生へと視線を戻し、俺は見つからない言葉を探す。
「どうした。どうせまた反対されるとでも思っていたか」
先に言葉を継いだのは先生だった。先生は手の中のカップに視線を落とし、それからゆっくり俺を見た。
見慣れた暗茶の髪がさらさらと揺れている。いつもは長めの前髪に隠れがちな目元が、瞬間、ふわりとあらわになった。
向けられた笑みに目が釘付けになる。揶揄めいた口調に反し、その表情は包み込むように優しい。
「だ、だって」
らしくなく声が上擦る。
「……っ」
埒が明かないと、仕切りなおすようにコーヒーを一気に飲み干して、傍らに置いていたソーサーにカップを戻す。
そんな俺の態度に、先生は微かに肩を揺らした。堪え切れない笑みを呼気に紛らせて。
「俺が急いでバイクを買うのは、いつだって先生に会いたいと思ってるからだよ」
空いた両手のひらを軽く握る。かち合った先生の双眸をじっと見詰めて、
「暇さえあれば、先生の顔が見たいって、――先生に触れたいって思ってるからだよ」
努めて平静を装って続けた。
「……そんなのは言われなくても解かっている」
でも、次いで先生にそう言われると、そんな余裕なんて一瞬にして崩れ去る。
「先、生…っ……」
堪えきれず、腕を伸ばした。
先生がまだ中身の残るカップを持っているのを知りながら、それを気にする暇もなく飛びつくようにしてその身を床へと押し倒す。
直前に先生がカップを手放さなければ、それこそ面倒なことになっていただろう。
こんな調子だからいつも怒られてしまうのだと、頭では解っていても身体がなかなか言うことをきかない。
以前は我ながら感心するくらい我慢強かったはずなのに、一度手に入れたと思ったら途端に箍が外れてしまった。歯止めが利かなくなった欲求には、驚くほど際限が無い。
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