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春風空(完)
「俺だけだと思ってた」
先生の唯一の同居人であるあき子さん――先生のお婆さん――の目も、今はないからだろうか。予想に反して、先生は大人しくされるに身を任せてくれていた。
俺は先生の肩を強く抱き、感極まったみたいに耳元で声を紡ぐ。
「本当は全然先生が足りてないって、思ってるの」
実際には先生が同様に思ってくれているという確証は無かった。
だけど先生はそれを否定しなかったし、あまつさえ俺の後頭部をそっと撫でてくれた。
それは要するに、この人で言うところの「思っていないわけじゃない」と言うこと。少なくともそれだけは自信があった。そう、知ってしまえば案外単純な人なのだ。
俺は頭を擡げ、きわめて緩慢な仕草で唇を重ねた。
「――仲矢」
触れ合わせるだけの浅いキス。名残惜しいように顔を上げると、囁くような声音で名を呼ばれた。それだけで言いようもないくらい胸が高鳴る。
ああ、やっぱり俺は先生に「仲矢」と呼ばれるのが好きらしい。
「分かってますよ」
俺は身体を起こしながらも、嬉しさに浸るように表情を和らげた。
先生の手を引いて、続いて起き上がろうとするのを助ける。再び並んで縁側に座った。
一際強い風が吹き、舞い散る桜の花弁の中、俺は悪戯めかして笑って見せる。
「ここでこれ以上のことはしません。でも、この後――先生の部屋でなら、いいんでしょ」
後半は徐に顔を寄せ、内緒話のように耳元で囁く。
「……まったく、お前は……。いまがどんな時間だか少しは考えろ」
「どんな時間って……え、そんなの、俺と先生の今後未来について話し合う時間じゃ……」
「違う。花見の時間だ」
さりげなく厭うように身を退かれ、それだけでもショックだというのに、直後には即答にて一刀両断。言うが早いか、先生は真っ直ぐ庭先を指差していた。
俺は思わず言葉をなくす。促されるまま、大人しく示された先を見る。
そこには当然、桜の木が佇んでいた。それはもうこれ以上ないくらい平和そうに。
「花見の時間……」
間違ってはいないけど、本当に最初からそうだったっけ……。
「――…」
見るともなしに視界に入る、先生の目端が淡く色づいているのに気づく。明らかに赤くなっているくせに、努めて澄ましているようなのがやっぱり先生らしいと思う。
だからさ、それが可愛いんだってば。
あえて直視はしないまま、密やかに破顔する。
まぁ、たまには気付かないふりもしてあげるけどさ?
そしてそう思った自分にも遅れておかしさが込み上げる。
だってそれも愛情かななんて、考えること自体、子供が背伸びしてるみたいに思えてきて。
本当は、これから今までと違う生活環境になって、先生との関係にどう影響が出るのか不安に思う部分もあった。
先生に比べるとまだまだ人生経験の乏しい俺としては、それについて色々と確約が欲しい気持ちもあったし……。
だけど、こうしていつもと変わらない時間を過ごしていると、それもほんの些細なことのように思えてくる。
いくら先行き不安だと言っても、結局はなるようにしかならないし、何より先生があまりに変わらないから、普通にいつまでもこのままでいられるような気になって――。
「あ、バイク買ったら、先生一番最初に後ろに乗ってよね」
「一番って……危ないじゃないか。俺の命が」
「いや、ちょっと待ってよ。そこなの、心配するとこ?」
っていうか、もしかしたらそんな先生の態度こそ、ある意味俺が欲しがってた『気持ちの体現』ってやつだったりして?
「まぁ、怪我だけはするなよ」
「……ハイ」
――だとしたら、マジ言うことないんだけどな。
end
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