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scene.3 鏡の檻

 ――そして夜。 俺は今回の試験の結果を知らせるために、久しぶりに実家へ電話を掛けた。 『……はい、藤原でございます』 「…こんばんは。…亜咲です」 『…亜咲さん?…こんな遅い時間に…そちらで何かあったのですか?』 「…こんな時間にすみません。…あの…今日、理美容師の認定試験の結果が届いて……合格したからって事を、報告しようと思って…。」 『…そう、ですか…。良かったですね。おめでとうございます』 「……それで…以前言ってた約束なんだけれど……ごめん。俺はまだ、戻れない…。」 『…ええ、それは承知しています。以前、そちらの社長様からお話をお伺いしておりますので……ですから、亜咲さんのご都合に合わせて頂いて構いませんので…。』 「……分かった。……それじゃまた」  そう言って俺は電話を切った。 自分の家族ではあるのだけど、どうしてもこの会話に慣れないのは何でだろう。  俺が藤原の家の次期当主として婆様に指名されてからというもの、両親たちはまるで腫物を扱うような態度で俺と接するようになってしまっていた。同じ血の繋がった家族なのに…。  元はと言えば、俺があの家を出てこの仕事に就くと決めてしまった事が根本の原因になっているのかも知れないけど…家族ってこんな簡単に壊れてしまうものなんだろうか…と、最近の俺は思う。航太やその周りに居る人たちとの人間関係を見ていると、その思いはなおさら強くなる。…それぞれが大変な思いをしながら、これまでの生活を作り上げてきたんだろうというのも分かる。社長とみわ子さん、その息子である航太と、かつて社長の幼なじみだったという結真さん…生まれた環境も育ってきた環境もみんな違うし、誰しもが順風満帆に過ごしてきた訳じゃないんだけど、それでもこうして一つの家族のように繋がっている。…俺はその中で、少しでも彼らの足元に近づけているんだろうか?…サロンを離れ、こうして一人で過ごしていく日々の中で、俺はそんな事を改めて考えるようになっていた。 「…えーと…どこだっけ…」  俺は、以前結真さんに教えてもらった精神科の先生の名前と病院の名前を書いたメモを探した。チェストやベッドサイドのダッシュボードの粗探しをして、目的のメモを見つけた。 「…あった…これか。……瀬名庸一郎……住所は…ああ…ここからだとけっこう遠いんだな…」  とは言え、既に結真さんからの紹介もされているという事なので、翌日に俺はこのクリニックへ行ってみる事にしたのだった。 ◇ ◆ ◇  ――メモに書かれていたクリニックは、俺の家から西方面のJRを乗り継いで1時間ほどの町の駅前からすぐの場所にあった。  その外観は、「瀬名クリニック」と書かれた小さな看板が立っているだけの本当にひっそりとした建物だった。俺はその扉を開けて、受付にいる看護師の女性に声を掛けた。 「こんにちは。…今朝、連絡させて頂いた藤原亜咲です」 「はい、お伺いしています。どうぞ」  そう女性に促されて、俺はすぐに診察室へと入っていった。 「…失礼します。藤原です」 「…どうぞ」  その声はカーテンの向こうから聞こえてきたので、俺はカーテンを引き、そのまま目の前に設置されていた椅子へと座らせてもらった。 「…藤原亜咲くん、だね?…初めまして、瀬名です」 「はい、よろしくお願いします」 「…話は勝又くんから聞いているよ。…最近大変なんだって?」 「…え、と…。あの…。」 「ああ、そうか。…藤原くんはこういう場所は初めてなのかな。…精神科とは言っても、別にそこいらの一般病院みたいに変に緊張しなくても大丈夫だからね。気軽に話せるサロンのような所だと思ってくれればそれで良いから。…ね?」  何だろうこの人…俺とは初対面なのにどうしてこんなに気軽に話しかけてくるんだろう…と、そんな事を考えていたら、瀬名医師は突然こんな質問を投げかけてきた。 「…そういえば、君は勝又くんと同じ職場に居るって聞いたけど…最近どう?彼の様子」 「……どういう事でしょうか?」 「いやね、実は勝又くんも私のクライアントなんだよ。…彼も、ここに来たばかりの頃は本当に酷くてねぇ……まるでこの世の終わりか?ってような顔してたんだよ。…もう全てがボロボロでさ、こんな子が私のカウンセリングでどうにか出来るのかって思ったくらい」 「そうなんですか?」 「流石にこれは駄目なんじゃないだろうかって思ったんだけど…君もそれに近い感じはするかな。……何かすごく重い悩みを抱えてるような感じに見えるね」 「……?」 「…私の基本はカウンセリングと簡単な診察だよ。こうして他愛もないような話をして、君自身が心に抱えてるものを少しずつ解放したり、その中でストレスや心因性から罹患する体の不調があるようなら、その症状に合わせた一般的な診療もしていくんだ」 「あ、そうなんですね。…だからこういう感じなんだ」 「うん。…なるほど、藤原くんは理解が早いね。…では本題に移ろうか。……藤原くんが自分自身の事で、最近気になっていることはある?」 「…最近は……時々、知らないうちに自分の意識が飛んでいる事があるんです。…恐らく、仕事に集中し過ぎてるからだと思うんですけど……その間、俺には全然記憶が無くて……他の人が言うには、どうやら途中で倒れてるらしいんです。…そのせいで、あまり仕事が出来ない状態で…今は休職させてもらっています」 「え、意識が飛んでる?…これはまたけっこうな案件だなぁ。…ちなみに、どんな時にその自覚症状が現れるか分かる?」 「…それは多分……仕事に集中してる時じゃないかなって…」 「…例えばどんな仕事に集中してる時?」 「…どんな時って言われても……」 「……ああ、ごめんごめん。この聞き方だとちょっと分かりにくかったか。…それじゃ質問の内容を少し変えてみよう。今、藤原くんが気になっているのは、仕事に集中し過ぎて、その影響で理由もなく倒れてしまって、自分の思うような仕事が出来ない…って事なんだよね?」 「…はい。多分……」 「それって最近になってから?…それとも、以前からあったのかな?」  瀬名医師に改めてそう聞かれて、俺は今の自分の身に起こっている事を考えてみた。 俺の中にある自覚症状として分かっているのは、サロンでの仕事中に意識が飛んでしまい、その間の自分が何をしていたのかが分からなくなってしまう事だ。…そして、気が付いたらバックヤードで寝かされていて、その時に初めて自分が倒れていた事を知る。これが最近の俺によく起きている事だ。それならば以前は…と聞かれ、過去の記憶を探ろうとしていくと…俺はとんでもない事実を思い出した。    ――それは、『航太に抱かれている最中にも自分の意識が飛んで、その間の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている』という事だった。 「……!!!!」 「…藤原くん、大丈夫?」    その事実に気づいてしまった俺は、瀬名医師の目の前であまりの恥ずかしさに赤面してしまい、そのまま同時に頬を伝って涙が零れ落ちてきた。  急に泣き出してしまった俺に、瀬名医師は椅子から立ち上がって俺の前に立ち、その体を優しく抱き留めてくれた。そのさりげない優しさがとても嬉しくて……俺は更に泣いた。 「……そうか。…それほどまでに、君は辛い思いをしていたんだね…。でも、もう心配しなくてもいいよ。……君が抱えるその辛い気持ちは……私が必ず解いてあげるから…。」 「……瀬名先生…。」 「…どうやら今の君は、その心の奥に、強い不安を抱えているみたいだ。…きっとそれは最近だけの話じゃなくて、もしかしたらかなり以前から漠然と抱え続けていて……そんな不安であったり出来事であったりというものが、年とともに積み重なって…今になって溢れてしまっているのかも知れない。その不安の重さで自分が保てなくなって、体と心がオーバーヒートしてるのかも知れないな。……辛いよね」 「……そう、なんですか……?」 「……恐らくね。…けど、これからも何度か私の元を訪れてくれれば、私は必ず君の味方になるし、話も聞いてあげるよ。……今って周りに相談できる人、あまり居ないんじゃない?」 「……。」 「…その点、私なら君が誰かに話しにくいような事も全て聞いてあげられるし、それに対するアドバイスや私なりの考え方、場合によっては医者としての診療も行うしね」  そう言われて確かにそうだな、と俺は納得した。 社長やオーナー、結真さんと……航太。みんな優しい人たちばかりだし、すごく俺の事を大切にしてくれるし心配もしてくれるけど……瀬名医師の言う、俺の心の奥にあるという漠然とした不安の根源的なものを相談できる感じはしない。…それは逆に迷惑をかけてしまうから。  そう思ったら、少しすっきりしたような気がしてきた。これまでずっとモヤモヤしていた何かが抜けて、霧が晴れたような気持ちになった。    ――俺はきっと前を向いていける。……そう思った。      

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