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scene.9 サロンにて

  ――航太との約束を翌日に控えたこの日。 俺は準備の為に、久しぶりに職場のサロンへ顔を出した。  サロンオーナーのみわ子さんは、いつものように奥のデスクに座っていて何やら作業をしているようだった。 「おはようございます」 「…?…あら亜咲くん。…今日はどうかした?」 「はい、明日の準備をしようと思って。オーナーは何をしていたんですか?」 「あ、これ?…うん、和装の着付けとかも始めてみようかと思って。それでテキストを読んでいたのよ。……でもテキストを改めて読んでみて、意外と難しいんだなぁって」 「へえ、そうなんですか。…最近需要多いですもんね。……良いと思いますよ」 「亜咲くん、着付けの勉強する気ある?」 「俺ですか?…勉強っていうか……まあ、それなりには出来ますけど…。俺の実家、一応そういう家系なので」 「あ、そうか!…そういえばそうよね。…じゃ、一応候補の中には入れておくわ」 「えっ?…どういう事ですか?」 「…今度、ある芸能事務所と提携する事になってね。…その事務所がそういう所にも力を入れているみたいで、和装の着付けや髪結いが出来る人が欲しいって言うのよ。だから今のスタッフの他に、そういう専門のスタッフも入れた方がいいかなって」 「それはそうかも知れないですけど……社長には……?」    俺はすぐにそう聞き返した。 最新の技術やトレンドを積極的に取り入れていくみわ子さんのやり方とは違い、社長は顧客との信頼関係の中で成り立つ仕事を重要視する人である。そんな人が、突如降って沸いたような芸能事務所との提携という話に進んで乗るとは思えない。更に言えば、かつては自身が芸能関係の仕事をしていて、理由あって自らその身を引いた人だ。 「それはね、大丈夫。……今回の提携の話は社長自らGOサイン出したから」 「……ええっ!?」 「芸能事務所っていうけど、別にテレビ関係じゃないのよ。…モデル事務所なの。……確か『マイナ・トリニティ』だったかな、何かちょっと変わった事務所でね」 「マイナ…えっ、それってもしかして…?」  みわ子さんから出されたその名前には聞き覚えがあった。 俺はすぐに自分のスケジュール手帳を取り出し、そこに挟んだいくつかの名刺の中から同じ名前のものを取り出して、そこに書かれていた名称を確認した。 「……やっぱり……。」 「あれ、亜咲くん知ってるの?」 「……『マイナ・トリニティ』社長・与那覇利苑……。これですね」 「あらま。だから提携の話も早かったんだ。……利苑君の……。」 「ちなみに、先方からはどういった感じの提携内容で来てるんですか?」 「それは向こうに聞いてみないと分からないわね。…でも名刺もらってるんなら、亜咲くんはもう既に利苑君とは挨拶済みって事よね。何か聞いてるんじゃない?」 「いや、俺もそんなに詳しい訳じゃ…」  俺が初めて利苑さんに会ったのは本店にヘルプに行った時だったが、しかしそれももう何か月も前の話で、その時にどんな話をしたかなんて覚えているはずも無かった。  その後、町の公園で偶然会った時にもらったのが、この名刺だった。 実はその名刺を渡された時に一度スカウトっぽく勧誘されたりしたのだけれど、俺は今の仕事を辞める気はないと断っていたのだ。   「……。」 「…利苑君、あれからどうしてるのかと思ってたけど……まさか自分で会社を立ち上げていたとはね。……彼は凄いわ、ホント」 「でも社長にしては珍しいですよね。あんまりそういうの好きじゃない人なのに」 「そうよねぇ。でも利苑君と一緒に仕事をしてた時から、もしかしたら…とは思ってたのよ。彼、面白い性格の人だったから。発想力が独特というか、けっこう奇想天外な所もあったりしてね。そういう意味では、結真君に匹敵するくらいの良きパートナーだったと思うわよ」 「へえ…そうなんですね」 「ま、そんな感じだからこれからもっと面白い事になるかもね?」 「はあ…。」  みわ子さんが何を期待してるのかは分からなかったけれど、その利苑さんがかつての師匠のもとへ来たという事は、以前話に聞いたジェンダーレスモデルの仕事に関する事なんだろう。  それを俺たちの仕事と合わせてどのように生かしていくのか、詳しい事は分からない。 全ては利苑さん次第、という事なのかも知れない。 「そういえば亜咲くん。あれからどう?…少しは落ち着いてきた?」    みわ子さんからそう聞かれて、俺は今の自分の現状を報告した。 「…今は……結真さんから紹介された精神科医の先生の所に行きながら、経過観察してる感じですね。…前ほど強い発作もないし、もう少ししたら復帰できるとは思うんですけど…。」 「……けど?」 「……いえ、今はそんな感じです」  俺は本当の事を言いかけて、やめた。 みわ子さんが心理カウンセラーだという事は、結真さんからの情報で聞いていたのだけれど、それはまだ、ここで言う必要はないと思った。  いずれはちゃんと説明しなければいけないのは確かなんだけれど、自分ですらよく分かっていない事を話すのは……今はまだ気が引ける。   「あ、いいのよ別に。……明日だっけ、航太の文化祭。あたしもお母さんから聞いてびっくりしたわよ。あの不朽の名作を男性だけでやるかー!ってさ。…実はあたしもちょっと興味あるんだけど、此処の仕事があるから見に行けないのよねぇ……残念。亜咲くん。終わってからでいいから、どんな感じだったのか今度教えてくれない?」 「…いいですよ」 「よし、これでまた航太をからかう楽しみが増えるわ」  そう言って、みわ子さんはガッツポーズを見せたのだった。 ◇ ◆ ◇  ――そして、夜。 俺は久しぶりに航太の携帯へ連絡を入れた。  以前、駅前のコーヒーショップで会って以来の連絡だったので、少しだけ緊張していたけれど、電話先ですぐに聞こえてきた航太のいつもの声に安心した。 『…亜咲、どうかした?』 「いや、明日の事なんだけど…どのくらいの時間で行けばいいのかなって」 『ああ、うん。…発表の本番が昼少し前になってるから、朝の10時くらいまでに学校の最寄り駅まで来てくれたらオレ迎えに行くよ?』 「その最寄り駅ってどこ?」 『あ、そうか。駅の場所教えてなかったっけ、ごめん。あのさ…』  そう言って、航太は明日俺が行くべき場所の最寄り駅を教えてくれた。 それから少し他愛のない話をして、俺はそのまま電話を切った。 「……これで良しと。…さて……。」  ああ、そういえばあの話また忘れてしまったな…そう思ったが、とりあえず今は焦るのはやめておこう。まずは明日の文化祭を成功させてあげること。……ずっと俺の中で靄のように燻っているあの話は、文化祭を終わらせてからゆっくりとしよう。  ――そう思って、俺は眠りについた。 『……亜咲。……亜咲……。』 『……ボクを呼ぶのは誰?……ボクは此処に居るよ。……此処に居るんだよ。』 『…亜咲……ねえ、亜咲……。……もう僕たちは会えないのかな。』 『……そんな事ないよ。……いつかまた、会えるよ……。』 『……そうなのかな。……僕には亜咲の姿が見えるけど、亜咲には僕のことが見えていないみたいだ。…同じ魂を分け合って育ったはずなのに……僕の姿が見えないのは……何故?』 『……此処は…暗い。……何も見えない。…真っ暗な闇に囲まれて……ボクはまるで、鏡の中に居るみたい……。』 『……鏡の中に居る亜咲。……鏡の中に閉じ込められている亜咲。……そんな可哀想な亜咲は……この僕がその鏡を思い切り割って……お前を、引きずり出してやる……!!』 ――「……駄目だ、そんな事は……っ!!」――      

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