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「具合はどうかな? ここは少し乾燥しているね。きみ、濡れたタオルを数枚、その辺に干しておいてくれたまえ」
先生の指示に、僕は立ち上がって言いつけ通りにタオルを絞り、和室に持ち込んだ衣紋掛けへとそれを広げて掛けていった。
ちら、と彼に目をやると、彼は先生に背中を支えられながら、上体を起こすところだった。
先生の手が、細長い硝子 の棒を持っている。体温計だ。
先生はその手を、彼の着物の袷 の隙間から、胸元へと差し入れ、ゆっくりと彼の脇に挟んだ。
先生の手が、彼の胸に触れたのだろう。
彼がひくりと肩を揺らし、目元が切なげに歪んで……ほんのりと白い肌を色づかせるのを、僕は見た。
どこからか、甘い芳香が漂う。
「なにか、甘い匂いがする」
匂いの出所を探るように、先生が部屋を見回した。
彼の喉が、ぐ、とせりあがる。
口元を押さえ、吐き気をこらえているのが、わかった。
先生は、彼が花吐き病であることを、まだ知らない。
彼が先生に想いを伝えることはない。
なぜなら先生には妻子があるからだ。
口に出来ない想いを、彼は先生が来る度に募らせて。
先生を見送ったあとに、嘔花するのだった。
この日も彼は、懸命に耐えていた。
しかし、不意の接触が……。検温をするという理由だけの、不意の接触が、彼の想いの奔流を、堰き止めきれないほどに増幅してしまったようだった。
「は、離れて、ください」
苦し気に、先生の体を押しのけようとした彼の、脇の下から体温計が落ちた。
着物の袖からするりと畳に落ちた硝子の棒へと、彼の体をまたぐようにして先生が手を伸ばす。
「おっと。割れると危ない」
身を乗り出した先生と、彼の距離が近付いた。
彼は咄嗟に体を捻り、布団から畳へと這い出す途中で限界を迎えて。
とうとう、先生の前で嘔花した。
苦悶の声を漏らしながら。
真白な梔子 が。
唇を割って、あふれ出す。
匂い立つように艶めかしい花の香が、部屋中に満ちた。
僕は彼に駆け寄った。
僕の足がたてた風が、梔子の花弁をひらりと揺らして。
それが、先生の方へと舞った。
「うわぁっ」
先生が、もんどりうって花から逃れた。
伝染りたくないのだ。医者であれば、当然の反応である。
彼はてのひらいっぱいに梔子の花を吐きながら、瞼を閉ざして先生の顔を見ないようにしていた。
「き、きみ、花吐き病に感染してたのか……」
狼狽した自分を恥じるように咳払いをして、先生が畳にちらばる梔子の花弁から距離をとる。
「それならそうと、言ってくれないと……こちらにも準備がいるんだからね」
動揺から早くも立ち直り、先生が体温計をケースに仕舞いながら、帰り支度を始めた。今日は診察はできないと踏んだのだろう。
「初めて吐いたのは、いつ?」
やわらかな医者の口調に戻って、先生が尋ねた。
吐き気に震える彼の骨ばった背を、僕はずっと撫でていたけれど。
先生の手が、彼に触れることはなかった。
「……ちょうど……一年ほど前、から、です」
乱れた呼吸の合間に、彼が答えた。
喉奥から最後の梔子が落ちて、嘔花はそれで、治まったようだった。
「一年……」
先生が難しい顔で、彼の言葉を繰り返した。
そんなにも長い間、黙っていたのか、と。
彼を責めるつもりかと僕は身構えたが、先生はなにも言わなかった。
「今日は取り敢えずお暇 するよ。診察の振替日は、またお父上と相談させてもらう。明日から冷え込むようだから、温かくしておいで」
先生の声に、彼の顔が泣きそうに歪んだ。 また来ると意思表示をした先生に、見捨てられたわけではないと、安堵したからか。
それとも、花吐き病を患っているということを知られた以上、彼の想い人が先生であるという事実が白日の下に晒されるのも時間の問題である、と、絶望したからか。
彼は静かに、一粒の涙を落とした。
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