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SS-4-13『温泉に行こう』
お食事処で僕は鰻丼を、先輩は和風御膳を堪能した。
「はぁ、お腹いっぱい」
ちらっ、先輩に視線を送るが、ずずっとお茶を啜っている。
先輩は今日はオフだからか普段あまり見たことの無い紺色のシャツを第二ボタンまで外して着ている。
カッケーな。
旅先での開放感と普段とは違う恋人の装い。
ムラムラするな、という方が無理。
「先輩」
向かい合う先輩の手を手のひらでそっと包み、見つめる。
「志摩…」
僕の瞳を見つめ返す先輩。
「…先に部屋に戻って」
にっこりと微笑んで寂しい事を言う。
「えーー!」
「すぐに戻るから」
ほらほら、と席を立たされお食事処を後にした。
ぐすん。
畳の上にゴロンと寝転んで部屋で一人ふて寝。
座椅子の座布団を二つ折りにして枕にした。
「あ〜あ、一人にしないでよ、先輩〜」
睡眠不足と満腹感で瞼は重く、僕はいつの間にか眠ってしまった。
“先輩?”
“どこにいるんですか?”
闇の中を歩いて先輩を探す。
さっきまで一緒にいたはずなのに。
握っていた手はいつの間にか離れ、一人ぼっちで歩いていた。
やがて周囲の闇にうっすらとあかりが差し始めた。
それでも闇の中に変わりは無い。
“志摩”
先輩が僕を呼ぶ声がする。
その声は一段と濃い闇の奥から聞こえてきた。
“怖い”
足が止まる。
この先に、本当に先輩はいるのだろうか。
疑い始めると信じる事が出来なくなり、欺瞞(ぎまん)が満ちてくる。
“先輩〜!”
呼び掛けて応える声は無く、考えあぐねる。
そして気づく。
今、自分から進まなくては物事は一切変わらない。
…行こう。
可能性がある限り。
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