それからも菅野は自宅で一言も喋らなかった。 葉山は毎日「行ってきます」って言いてきたかと聞いた。 初めは答えられなかったが、毎日聞かれるので「言った」と答えるようになった。 けれど葉山には嘘がばれていることもわかっていた。 葉山は菅野の代わりに、菅野宅に電話をするようになった。 平日も休みの日も。 そして必ず「いつもの時間には送り届けますから」と言うのだ。 葉山は外泊させてくれなくなった。 「泊まる」 と、菅野が言うと。 「そう言ってきた？」 と聞くのだ。 「なら、電話して。それが嫌なら、ダメ」 本人がダメなら葉山の両親に頼むしかない。 葉山が席を立った隙に葉山の優しい母親に尋ねた。 「今夜、泊めてもらってもいいですか」 「え、でもヒロちゃん…」 そう言いながら葉山の母親は父親と顔を見合わせる。 (ち、将樹に何か言われてるな) だが、2人が菅野を可愛がっていることは知っていたので、ことさら可愛く表情を作り、哀れっぽく上目遣いでお願いする。 「お願いします」 途端に母親の目が緩み、父親も同情の色を見せた。 2人が葉山から全て聞いていることはわかっていた。 あれ以来さらに二人は優しくなったし、体を気遣う言葉も言われる。この間は卒業したらここで一緒に住んでもいい、とまで言われた。 「いいですか？」 もう一押しとばかりに、首を傾げて見せると母親が「そ、そうね…」と父親をみた。 (よしっ) そう心の中でガッツポーズを作った矢先、葉山が戻ってきた。 「だめだっていってるだろ！母ちゃん、ヒロにだまされんなよ！こいつ母ちゃんが自分に弱いこと知ってんだから」 「で、でもね、将樹。ヒロちゃん、こんなに嫌がってるじゃない。一回ぐらい…」 葉山の母親がおろおろと菅野と息子とを見比べながら弁護した。 「一回で済むわけないだろ。ヒロもいい加減諦めろよ」 「…なんだよ、将樹が電話してくれたらいいじゃん、いつもみたいに」 「ヒロ~~っ」 頭を拳骨でグリグリされた。 「あれだって、ほんとはお前がすることだろ？俺が甘やかしてやるのはあそこまで！」 「…くそ…」 「俺は決めたの！」 そう言って、ふん、と鼻息を荒くした。 そんな中で、菅野はある朝、吐き気を覚えてトイレに駆け込んだ。 けれど吐瀉物は出てこない。 胸がムカムカする。 「きたか…」 菅野は鏡に映る自分の顔を見て、ニヤリと笑った。 つわりだ。 咄嗟に思った。 赤い液体を飲まされた翌日から、ずっと夕食とともに食卓に並べられていた避妊薬。 1日に一回飲めば、効果が一日中持つ。 あの日から葉山も毎晩飲んでいると言った。 菅野は、流産した日から飲んでいなかった。 いつも飲んだふりをして、後で捨てていた。 そして二人で遠くまで出かけた日、おそらく葉山の薬の効果は切れていたはずだった。 指を折って数える。 三ヶ月以上たっている。 両親の留守中に、家にあるオメガバースの資料は全部読んだ。 あと三ヶ月、誰にも知られずに過ごせれば、堕胎も出来なくなる。 それ以上になると命の危険があると書いてあったのだ。 今度こそ、守ってみせる。 そう心に誓った。 しかし、つわりはかなり菅野を苦しめた。 流産を、Ωはその性質上しにくいらしいが、警戒して体育の授業はできるだけ避けた。 気分が悪くて、保健室にも何回も行くことになった。 そんな状態の菅野に教師が気付かないわけがないのだが、やはり菅野は浅はかになっていた。 ある朝、早くからつわりに悩まされて、何度もトイレに駆け込んだ。 とても朝食を取る気になれず、そのまま登校することにした。 いつも通り何も言わず、リビングの前を素通りする。 するといつもならもう出勤しているはずの父親がいて、腕を掴まれた。 そのまま引きずるようにして車に乗せられる。 母親もすぐに追いかけてきた。 いまいち状況を理解できずにいる菅野の視界に大きな病院が映った。 途端に青ざめる。 車が止まると、逃げ出そうと思っていたのにあの日植え付けられた恐怖のせいか足が動かなくなった。父親に腕を引かれるまま病院に入り診察を受けさせられる。 診断結果は菅野が考えていた通りだった。 そして父親が「早急な堕胎手術を」というの聞いて、知らず震えた。 母親が入院手続きをして、数日分の着替えを取りに帰った。 その間しっかりと父親に見張られた。 菅野は落ち着かなく病室を見渡した。 完全な個室で、窓ははめ殺し。 開く部分でも数センチ。 入口は一つ。 出てすぐにナースセンター。 エレベーターはその真ん前。 母親が戻ってくると、父親は出勤して行った。 パジャマに着替えるように言われ、静かに従う。 けれど頭の中では常に隙を狙っていた。 着替えるとベッドに腰掛けた。 すぐに動けるように。 そして母親がクローゼットに荷物を置きに行くため背中を見せた途端、菅野は全速力で部屋を飛び出した。 「え、浩人？」 ナースセンターには好都合なことに誰もいなかった。 エレベーターのボタンを何度も押して、母親が追いかけてくる音を気にした。 「だ、誰か！」 やってきたエレベーターに滑り混んで、ドアを閉めるとき母親が見えた。 間に合った。 問題は一階についてから。 出口まで距離がある。 思わず腹をさすった。 全速で走るけど、耐えてくれよ。 チン、と軽い音を立ててエレベーターが止まると、大きく息を吸い込んで走り出した。 すれ違う人たちが何事かと振り返る。 大きなホールを抜けて、出口が見えた。 もう少し、そう思った時、横からぶつかるように現れた男に捕まった。 「離せっ」 白衣を着ているから医者だろう。 「離せってば、将樹っ！」 振りほどこうと必死にもがいたが、人が増えて、両脇を抑えられ、抱えられるようにして、また病室に戻された。 唇を噛み締め、またベッドに座る。 母親が医者たちに頭を下げているのが見えた。 医者が去っていくと、入れ替わりに現れた看護婦がいう。 手術室へ移動、その言葉を聞いた途端、菅野は反射的に動いた。 母親を押しのけ、看護婦を突き飛ばした。 「きゃあっ」 「だ、誰か息子をっ」 今度はさっき出て行ったはずの医者たちがエレベーターの前にいたので、逃げる方向を変えた。同じフロアを走り回る。 「君、待ちなさいっ」 立ちはだかってくる看護婦は突き飛ばした。 走りながら目に入った非常階段の標識。 標識を辿って走る。 「まてっ」 もうちょっと、というところでまた羽交い締めにされた。 「はなせ！はなせよ！将樹っ」 とにかく手も足もばたつかせる。 「将樹ー！」 看護婦ならまだなんとかなった。 だが成人男性2人に力任せに押さえ込まれると、敵わない。 「いやだ、はなせ！将樹ー」 何度も葉山を呼ぶ。 現れるはずがないと思っていても、助けを呼ぶ。 不意に口にガーゼを当てられた。 ふわりと匂った病院特有の匂いに頭がクラクラした。 そして力が抜けていく。 「い、やだ、将樹…ま、…さき」 意識が途絶えた。